三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.09 神戸の紙と横浜のビール

久彌が三菱合資会社の社長として事業を統轄し、鉱業や造船を中心に幅広く発展させたのは明治から大正にかけて。それは近代国家確立の時期でもあった。今回は、その久彌が個人的な関心を持ち、ことのほか心をくだいた二つの事業を見てみよう。「神戸の紙」と「横浜のビール」である。

彌太郎が土佐開成館長崎出張所の主任として武器買い付けや土佐の物産の売り込みに忙しかったころの取引先のひとつに、ウォルシュ兄弟の商館があった。明治になり貿易の中心は神戸や横浜に移ったが、付き合いは続いた。1872(明治5)年に彌太郎の弟、彌之助の米国留学のお膳立てをしたのは弟のジョンである。

そのウォルシュ兄弟が神戸で経営していた製紙工場に、岩崎家が出資したのは明治22年。当時は木綿や麻のボロあるいは藁屑から紙を作った。30年にジョンが病死し、すでに高齢だった兄トマスは事業を整理して米国に帰ることになった。久彌は兄弟の持ち分を買い取り、合資会社神戸製紙所を設立。37年には三菱製紙所となり、東京に中川工場を新設、中国の上海にも進出した。

製紙事業は当初、三菱合資会社の傘下にあったが、久彌が社長を退いてからは岩崎本家の事業として位置付けられ、久彌自身が末永く経営に関わった。土佐は昔から和紙の生産が盛んだった。久彌が長じて洋紙製造に関わったのも何かの因縁かもしれない。大正6年、三菱製紙株式会社に改組、京都工場、浪速工場などを買収していった。かくしてボロパルプから始まった製紙事業は発展を遂げ、なかでも上質アート紙や写真印画紙など高級紙の分野では他の追随を許さない存在になった。

麒麟麦酒株式会社の設立

一方、横浜。明治の初めからスプリング・ヴァレー・ブルワリー社がビールを造っていた。これを横浜在住の外国人たちが岩崎彌之助や渋沢栄一ら財界人の出資も得て買収し、ジャパン・ブルワリー社とした。当時、ビールは日本人にはあまり普及していなかったが、総合代理店である明治屋は明治21年に「キリン」のラベルで一般向けに売り出した。ちなみに、当時はビールのラベルには犬やライオンなどの動物を使うのが世界的に流行っていた。

明治屋は、岩崎彌之助から資金援助してもらってロンドンに学んだ磯野計が設立した。横浜に立ち寄る船舶に食料品や雑貨を納入することをメイン・ビジネスにしていたが、酒類の輸入販売業者でもあった。二代目社長・米井源次郎はジャパン・ブルワリー社の買収を計画し、中国視察に赴く久彌を追いかけて、上海航路の船上で直談判、全面支援の約束を取り付けた。

40年、明治屋と岩崎家に日本郵船も加わり「麒麟麦酒株式会社」が設立され、買収は実現した。工場は当初横浜の天沼にあったが、関東大震災で壊滅し鶴見に新工場を設立した。のち尼崎、仙台、広島のほか、朝鮮半島や満州にも事業展開していった。ビール壜の形のボディーの宣伝カーを走らせ、世間の話題をさらった。

その後、業界は熾烈なシェア争いと合従連衡を繰り返すことになった。久彌は一貫して麒麟麦酒を支えたが、製紙の場合と違って経営に直接関与することはなかった。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年1月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。