三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.11 小岩井の四季

岩手山麓に広がる緑の大地。小岩井農場。総面積3000ヘクタール。

1891(明治24)年、岩手県の不毛の火山灰地に、ヨーロッパ農法による本格的な農場の建設を夢見た男たちがいる。小野義真日本鉄道副社長。岩崎彌之助三菱社社長。井上勝鉄道庁長官。3人の頭文字をとって小岩井農場と命名した。東京から鉄道が開通したばかり。ロマンあふれる事業だったが、寒い痩せた大地は思うようにならなかった。8年の苦闘の末に小野と井上は手を引く。

だが、岩崎は諦めなかった。スギやアカマツ、カラマツが少しずつ育っていく。牧場では乳牛がふえる。牛乳や醗酵バターの製造販売もささやかながら開始された。

彌之助の後を継いだ久彌が、時間の多くを小岩井農場に費やすようになったのは明治39年である。それまでの牧畜にあきたらず、イギリスからサラブレッド種を輸入して種馬の改良と生産、競馬馬の育成に力を注いだ。やがて小岩井産の駿馬がダービーを制覇する。ホルスタインの種牛を生産し、酪農製品の製造販売にも注力した。農作は燕麦、とうもろこし、じゃがいも、大豆など。地道な植林事業は、かつては見渡す限りの荒野だった大地を緑の森に変えた。

久彌は毎夏、家族とともに小岩井農場に滞在した。農場には岩手山を背にして聴禽荘(ちょうきんそう)と名づけた別邸があった。広く明るい芝生の庭にアカマツが生い茂り、遥かに南昌山(なんしょうざん)が見える。妻の寧子や娘たちは単調な農場の生活にすぐ飽きてしまうが、久彌はステッキを振りふり農場を歩きまわる。家族が寝ているうちに起きだし、ニッカーポッカーにヘルメットという姿で馬の調教に立ち会ったり、最新のアメリカ製トラクターに同乗した。

農場には子弟のための小学校があった。久彌は子どもたち一人ひとりを覚えていた。毎年やってくると、ノートなどの土産を手渡しながら、成長した姿を我がことのように喜んだ。農場員には親子二代という者も多かった。現在は三代目もいる。

岩手山に雲がゆく

小岩井農場展示資料館の館長をつとめる野澤裕美は語る。「茅町様の奥様はため息が出るくらいおきれいで、お上品で、お優しくて、それはもうすばらしい方で…と農場の女性たちに語り継がれています」。野澤も小岩井で生まれ小岩井で育った。

農場の秋の収穫祭には作物の品評会があった。一等は「茅町様」に届けられ食卓をいろどるとあって、大いに盛り上がった。茅町の久彌たちも小岩井から一等入選の作物が届くのを毎年楽しみにしていた。

晩年、久彌は千葉の成田に近い末広農場の別荘で過ごした。90歳の秋、病床に小岩井からりんごが届いた。

「もう…そんな季節に…なったか…」

障子を開けさせ、青い空を見て涙ぐんだ。長宗我部武士の血をひき土佐の気性を秘めた久彌だったが、1世紀近くを生きた今、心に宿る小岩井の四季。岩手山に雲がゆく…。

久彌の夢見た海外での農牧事業はいずれも志なかばで挫折したが、ブラジルだけは、ファゼンダ・モンテ・デステ(ポルトガル語で「東山農場」)が、見果てぬ夢を紡ぐ。サンパウロの北西120キロ。見渡すかぎりのコーヒー農園だ。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年3月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。