
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.01 GHQに「NO!!」と告げた男

明治に生まれ、激動の昭和初期の約20年間に三菱グループの企業理念を確立させた三菱第4代社長、岩崎小彌太。
21世紀に向けて、今その理念の再認識が求められている。
ここに小彌太の志(こころざし)と人間性を2年間の連載で紹介する。
なお、岩崎の「崎」の字は「﨑」の字が使われることもあるが、ここでは一般的な「崎」を採用した。
筆者は(株)三菱総合研究所社友で中央大学講師。
この物語の主人公岩崎小彌太(1879~1945)は、第二次世界大戦前の株式会社三菱本社の社長である。敗戦直後の1945年12月に67歳で亡くなったが、現在の三菱グループの基礎を作った名社長という伝説のわりに知られることが少なく、いわば幻の大社長なのだ。
「こんど『マンスリーみつびし』で小彌太の生涯を物語風に書くんだけど、何しろ生真面目な人なんで書き方がむつかしいよ」と私が言ったら、三菱総研のある部長さんが「そんなことないでしょ、坂本龍馬だって出てくるんだし」という。ちょっと待った。坂本龍馬の仲間は三菱の始祖岩崎彌太郎で、小彌太ではない。彼は四代目の社長だよ。というような具合で、三菱の管理職でも岩崎彌太郎も小彌太もごちゃまぜである。
ではなぜ岩崎小彌太を語ろうとするのか。難しい時代に企業の舵とりをする経営者とはどんな存在か、一体、社長とは何か、企業の目標は何かなどを、改めて考えてみる時に、 日本の近代経営史のなかで最も気になる男だから、なのである。
第二次大戦後、GHQ(連合国総司令部)が日本政府への司令者となった時、真っ先に要求したのが軍隊の解散と財閥の解体だった。GHQはこう言った。
「財閥は戦前に日本国内市場で莫大な利益をあげていた。それを増大するために軍部と結託して戦争を引き起こした。戦争を引き起こした元凶は軍と財閥だ。だから財閥は直ちに自発的に解散せよ」
無念の財閥解体
この時、小彌太は戦時中の無理がたたって体調を崩し、熱海の別邸で臥せっていた。小彌太は思った。われわれ三菱は戦争の元凶ではない、解散しなければならないようなことは何もしていない。どうしてGHQの言いなりになる必要があるか。
「連合軍は、財閥は過去を反省して自発的に解散せよというが、三菱はかつて国家社会に対し不信の行為をしたことはなく、軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。我々は国策の命ずるところにしたがい国民としての義務を果たしたのであって、何ら恥ずべき点はない。いわんや三菱本社は社会に公開され、すでに 1万3000人の株主もいる。これらの株主の信頼に背き、会社を自発的に解散することはできない」と、最高責任者として堂々と宣言した。
GHQは他の三大財閥、三井、住友、安田にも解散を要求した。安田(現在の芙蓉グループ)が最初にこれを受け入れ、住友も三井も続いた。ところが三菱の社長は自説をまげない。相手は当時の日本でオールマイティのGHQである。困ったのは日本政府だった。
小彌太も病をおして熱海から上京してきた。時の大蔵大臣が丸の内まで説得に来たがウンといわない。逆に「株主に配当したいので許可して欲しい」と言い出す始末。最後は日本政府が解散命令を出し、小彌太の意志に反して、三菱本社はやむなくそれを受け入れたのである。その後、小彌太は麻布鳥居坂の焼け跡の倉の中で寝込んでしまい、東大病院にかつぎ込まれ、そこで亡くなった。
敗戦直後の大混乱の中で GHQの要求を受け入れないなど、余程の強い志と思想がなければできないことだ。岩崎小彌太は強固な反欧米主義者だったのだろうか?(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年4月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。