
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.03 ケンブリッジ留学時代

岩崎小彌太は第二次大戦前の日本の経営者のなかでは、屈指の国際派だった。22歳から28歳まで英国に暮らし、ケンブリッジ大学に留学した。時は20世紀初頭の5年間。その頃のイギリスは、長い間君臨したビクトリア女王が1901年に亡くなり、新世紀の幕開けと共に、大英帝国の絶頂から没落、そして社会的変動が始まろうとする時代だった。
当時、日本から英国に子弟を留学させることができたのは、ごく一部の資産家に限られていた。彼らは、ただ箔をつけるために聴講生として大学に籍をおくだけの者と、本格的に勉強する学生とに分かれていた。小彌太は(現在の)東京大学法学部を中退し、ケンブリッジの入学試験に挑戦した。英語はもちろん、ラテン語や古典まで勉強し、本科学生として入ろうと、受験準備に2年を費やした。
彼はケンブリッジの町の玉突(ビリヤード)場の2階に下宿し、受験勉強をした。仲間の日本人学生たちが遊びに来ても、われ関せずと机に向かっていることが多く、その集中力には仲間も脱帽した。それでも彼らは時に小彌太を誘い出して遊び回った。当時、学費などもロンドンの日本公使館が厳しく管理していて、勝手に使えなかったので、彼らは飲みに行く小遣いをひねり出すのに知恵を絞っていた。小彌太はすでに酒豪であった。
青雲の志を抱いて集まっているこの若者たちには、英国社会の文物を始め、ヨーロッパの政治経済の動きは新鮮で刺激的だった。新しい社会主義思想、勃興期の労働運動、新興の学問としての経済学など、知的好奇心旺盛な小彌太は貪欲に吸収した。小彌太から見ると、日本の社会は英国よりもかなり遅れていた。
政治家を目指して
「日本ではいろいろ騒動があり、政略とか何かと騒いでいるのは、まことに嘆かわしい。いま仕事をしている連中の多くは根本から腐敗し手が付けられない。われわれは彼等を度外視し、彼等に感染されないように用心し、20世紀の後半になって、清浄な社会をもつ大日本帝国を建設することに努めていきたい。
このためには、教育が特に大事である。英国の学校教育は個性を尊重し、自由な雰囲気の中で行われている。日本の学生が教科書の詰め込み主義に毒され自主的精神を喪失している現状に比べると羨ましい。
小生帰国の上は、官庁の制約を受けない学校を起こし理想的教育に専念してみたい」
このなかの「20世紀の後半」とあるところを「21世紀」と入れ替えれば、これはそのまま今の日本の展望にピッタリ当てはまるような文章だが、これは小彌太が後に共に成蹊学園を創設することになる親友・中村春二に送った1901年の手紙である。
この頃、日本は日露戦争直前で国家財政は過大な軍備費に圧迫され、国民は貧しく、政治家は政争に明け暮れていた。青年小禰太は正義感からそれを批判し、帰国したら政治家になって日本の改革をしたいと真剣に考えていた。親しい友人にも、父親の岩崎彌之助にもそう言っていた。三菱本社の社長になって経営をするなどということは念頭になかったらしい。では、小彌太のケンブリッジ大学での生活はどのようなものだったのであろうか?
ケンブリッジの町は、ロンドンから電車で1時間ほどのところにある。約100年前の小彌太の頃でも今の様子とあまり変わらず、なだらかな丘陵が続く静かな学園都市であった。
小彌太が入学したペンブローク・カレッジは14世紀以来の歴史を有していた。1902年の新入生は72人で、日本人は小彌太ひとり。学生はそれぞれ数学、自然科学、歴史学など専門科目に分かれていった。
実は夏目漱石もここに入りたいと思い、同じ頃ケンブリッジを訪ね、小彌太の親友の一人に面会した。
「『ケンブリッヂ』へつくと驚いたのは書生が運動シャツと運動靴で町の内を『ゾロゾロ』歩いて居る。(中略)
夫から段々大学の様子を聴て見ると先づ四百磅(ポンド)乃至五百磅を費やす有様である。此位使はないと交際抔(など)は出来ないそうだ。(中略)衣服其他之に相応して高い。月謝も高い。留学生の費用では少々無理である」(夏目漱石の手紙、明治34年)
漱石は年額1800円(180ポンド)の官費留学生だった。
「(前略)彼等は午前に一、二時間の講義に出席し、昼食後は戸外の運動に二、三時を消し、茶の刻限には相互を訪問し、夕食にはコレヂに行きて大衆と会食す(後略)」(夏目漱石『文学論』序)
漱石は「紳商子弟の呑気なる留学」に比して自分の留学費用ではとてもやれない、気風もなじめないとケンブリッジはあきらめ、ロンドンの下宿で買い込んだ洋書と格闘し、ついにノイローゼ気味になってしまう。
エレガントな学生生活
漱石が観察したように、ケンブリッジの学生生活はすべてが紳士風だった。講義を聴き、指定された本を読み、午後はボートを漕いだり、球技や乗馬をし、ティー・タイムを楽しんだ。休日にはピアノを弾いたり絵を描いたりする、まことにエレガントなものだった。とはいっても指導教授の個人指導は厳しかった。小彌太を担当したのは欧州近代史専門の大学者で、毎週1時間ずつ先生の前でレポートを読み上げることを課されたが、小彌太はがんばってついていき、その結果、英語力もメキメキ上達した。
後年、社長時代の彼に会ったアメリカ人が、彼の英語を「インペカブル(impeccable)」完璧だと評したが、それくらい立派な英語を話したようだ。
彼が勉強したのは欧州史、政治学、経済学などで、入学3年目の成績は「極めて優秀」の次の「優秀」(セカンド・クラス)だったが、次の年は「良」(サード・クラス)に落ちた。ひとつには、社交に忙しかったからだ。学生は正装して馬車に乗ってディナーに招待し合った。この紳士の社交マナーのため彼の交際費は年間数千ボンドに跳ね上がった。なんと漱石の1年分の留学費をはるかに超える。父の彌之助は小彌太の金遣いがあまりにも激しいので、悪い道楽でも始めたかと疑った。小彌太も信用してもらえないのなら勉強はやめて帰るとまで言い出した。友人は「今帰ると、卒業する力がなかったと、一生頭が上がらなくなる」と忠告。結局、彌之助も小彌太の社交費用を認めた。送金電報が着くと、彼はそれを握って友人の下宿に飛び込んだ。
1905年、小彌太は無事優秀な成績で卒業し、5年ぶりに帰国の途についた。その時、彼は政治家になって日本を改革しようと思っていた。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年6、7月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。