
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.04 潔癖な少年

ここで小彌太の少年時代に話を戻そう。彼は1879年(明治12年)、東京は神田駿河台で生まれた。今のJR御茶ノ水駅南側の日立製作所の本社がある場所である※1。明治の初めには岩崎家も三菱会社の事務所もここに集まっていた。その後会社は丸の内が開発されて移転し、岩崎の家も本家が湯島へ分家が高輪(今の開東閣)へ移った。
少年時代の小彌太は利発だったが、どちらかというとおとなしく口数の少ない内気な子だった。小学校は学習院予備科に入った。2年の時は修身と習字が100点だった。しつけが良くて字を書くのが好きなおとなしいお坊ちゃんの姿が浮かんでくる。
4年の時、東京高等師範(現筑波大)付属小学校に転校し、そのまま中学まで進んだ。当時、東京高師はお茶の水にあったから、小彌太は家から歩いて通った。温厚でおとなしかったので、子供の頃のガキ大将っぽい話は残っていない。
中学から寮に入った。岩崎家が建てた私設の学寮で駿河台の屋敷に隣接していた。そこにかねてから岩崎家が奨学金を出していた大学生や高校生らを集め、小彌太は弟の俊彌(長じて旭硝子(現・AGC)を創設した)と一緒に彼らと共同生活をした。寮は質実剛健をモットーとし、粗衣粗食、芝居寄席見物一切厳禁というスパルタ式生活で、剣道、弓、水泳、ボート、狩猟など文武両道を鍛えられた。小彌太は剣道とボートに熱をいれた。後年副社長時代に丸の内に剣道場を作ったが、これは養和会道場として今でも続いている。
ある年、冬休みに松島へ狩猟に行った時獲物がなく、一同もう帰ろうと言い出したが、小彌太は「おれは獲物をしとめるまでは絶対帰らない」と言い張って聞かず、ついに正月元日の未明に船を仕立てて狩猟に出かけたので、一同震え上がってついて行ったこともある。
若様 vs. 料亭女将
中学時代すでに、小彌太は身長190センチ、体重100キロもあり、明治の頃の日本人としては格段に大柄で、仲間からは「いっそ君は相撲取りになったら横綱常陸山(ひたちやま)以上になれるんじゃないか」とからかわれるほどだった。
この体格でも剣道は敏捷で、体を活かした体当たりは得意業だった。後年ゴルフを覚えたら、ハンディ12まで進んで、素人ゴルファーとしては上々の腕前だった。
ところで、明治中期、鹿鳴館時代の富裕な家などでは人の出入りもかなり派手だった。伯父彌太郎時代の岩崎家もその例外ではなく、宴会などになると芸者衆が頻繁に出入りしていた。
そのころ、料亭富貴楼の女将(おかみ)おくらが岩崎家に入り込み、我がもの顔に振る舞っていた。小彌太は少年の潔癖感からか、この女将には敵愾心(てきがいしん)を燃やしたようだ。女将も若様の前では神妙に振る舞ったという。
小彌太は1896年、一高(現東大教養学部)に入った。そこで生涯の友となる大久保利賢(のち横浜正金銀行頭取)、中村春二(成蹊学園の創立者)らと交わり、勉強とボートに熱中した。彼は当時まだ珍しかった自転車に乗って本郷の一高まで通った。内気なおとなしい少年は積極的で活動的な青年に成長した。
英国留学の精神的下地はこの頃に養われていたのだ。(つづく)
-
※1
現在の御茶ノ水ソラシティ
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年8月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。