
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.05 結婚そして父・彌之助の死
小彌太の英国留学からの帰国は1906(明治39)年、28歳の時だったが、その後2年の間にたて続けに彼の一生を決める重大事件が降りかかった。まず、帰国した小彌太を待っていたのは父・岩崎彌之助の、三菱合資会社に入社せよという強い希望であった。希望というより命令といったほうがよい。
小彌太は日本へ帰ったら政治家になって日本社会を改革したいと、本気で考えていた。ケンブリッジ時代の学友の一人で同じ頃帰国した浜口担は実際に郷里の和歌山から衆議院に打って出た。もっとも浜口の政治活動は理想と現実があまりにも違いすぎて、すぐにやめて実業家になってしまうのだが、イギリス議会政治の実際を見聞した若い日本人留学生が、日本の政治を改革したいと考えても不思議ではなかった。
父・彌之助は小彌太に、三菱合資会社に入って副社長になれと言った。副社長として社長の岩崎久彌(彌太郎の長男で小彌太の従兄)を補佐せよというのだ。周囲も、立派に成長した小彌太の人間を見込んで大いに期待していた。小彌太はこと志と違い、困り果て何日も考えこんだ。岩崎家から飛び出して政治家になるか、父親の期待を受けて会社に入るか。結局、彼は父親の説得を受け入れたのだが、ある条件をつけた。それは名義だけの副社長という「虚職」ならご免被る。自分の考えを思う存分やらせて貰えるのなら引き受けましょう、ということだった。青年の大いに気負った返事だったが、父親の彌之助はそれでよろしいと承知した。こうして小彌太は帰国した年に、三菱合資会社に副社長で入社した。
その翌年、父親は今度は小彌太に結婚しろと言う。ケンブリッジの学生だった頃、小彌太は一生独身で通すと宣言していた。どういう経緯があったのかは判らないが、青年期にはよくあることだ。早く身を固めよ、という父親の希望に対して、小彌太はあまり抵抗せずに早々と従った。
絢爛豪華な宴
新婦は島津孝子、薩摩の島津珍彦(うづひこ)の令嬢である。維新の時に活躍した島津久光公の孫娘にあたり、やや面長でふっくらとした顔だちの20歳の花盛りであった。新郎小彌太は29歳、仲人は松方正義、結婚式は高輪の岩崎邸(今の開東閣)で行われた。1907(明治40)年3月だった。披露宴は深川の清澄庭園に移り、宴席は紅白の桃の花で飾られ、市村羽左衛門、尾上菊五郎、尾上梅幸ら歌舞伎の名優が舞台で舞い、陸軍軍楽隊が演奏する絢爛豪華な宴であった。新郎は西洋式のフロックコート、新婦は和服で、春の光を浴びて歓びを尽くしたのである。
この年、小彌太の弟でロンドン大学化学科を出た岩崎俊彌が大阪で旭硝子株式会社(現・AGC株式会社)を創設した。2人の優秀な息子がそれぞれの道を歩み始めたと同時に、父親の岩崎彌之助の体調がおかしくなった。上顎骨に癌ができていた。そして小彌太結婚のわずか1年後に2代目の三菱社長で第4代日銀総裁だった岩崎彌之助は58歳でこの世を去った。こうして30歳の小彌太は人生の大きな節目を迎えたのである。
そんな中、小彌太は日本最初のオーケストラが誕生する際、スポンサーとなった。当時の日本では珍しかったが、彼はクラシック音楽を趣味としていたのである。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。