
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.06 山田耕筰への援助と東京フィル
文化活動に対する企業の支援は企業メセナといわれる。岩崎小彌太は明治の終わり頃から音楽家の留学援助とオーケストラの育成に力をいれた。企業メセナの先駆者だった。
彼がいつから音楽に興味を持ったのかわからないが、ケンブリッジ大学時代ではなかったか。当時の留学生で音楽に関心を持つ者は少なかった。夏目漱石は、音楽は「まるで不案内である」と書いているが、小彌太は帰国後、当時東京音楽学校(現東京芸大)のドイツ人教師ベルクマイスターについてチェロを習い始めた。腕前のほどは不明である。
1910年(明治43年)、小彌太は英国時代の友人を誘って、音楽愛好家団体、東京フィルハーモニック・ソサエティーを設立した。さらにベルクマイスターの緑で、東京音楽学校を出たばかりの一人の優秀な青年がドイツ留学を希望していると知り、留学費用を出すことにした。その青年とは、山田耕筰である。
山田は明治43年に高輪の岩崎邸を訪ねた。大きな玄関前にグレートデン犬が数匹繋がれていた。大の犬嫌いな山田は死ぬ思いでこの恐ろしい関門を通り抜けた。小彌太は葉巻を口にして出てきて訊(き)いた。
「君はドイツにいつ発(た)たれますか」
おずおずとまかり出た山田は、えらぶったところがない小彌太の態度に感動した。そして、自分はだらしない男であるから男爵にご迷惑をおかけするのではないかと言った。「そんなことは意に介しない。国家のために成功してください」と小彌太は答えた。一学生に「国家のために……」とは大げさだが、明治の終わりの日本では洋楽の勉強に出かけるのはそれほど大事(おおごと)だった。
世界の文化に寄与せよ!
山田はベルリンで音楽理論と作曲を学んだ。しかし西洋音楽の伝統を持たない日本人・山田は、とても外国人に太刀打ちが出来ない、自分は才能がないと悩み、音楽は余技とし、戯曲家になりたいと考えるようになった。山田は1914年(大正3年)に帰国し、その気持ちを小彌太に話して援助を辞退したいと言った。
すると小彌太は「君が芸術によって国家に必要な人間になり、ひいては世界の文化に寄与できるならば私は満足だ。音楽だろうと文学だろうと援助を続けよう」と答えた。
その言葉に感動した山田は再び作曲に専念した。その年、小彌太は東京フィルハーモニイ管弦楽部を組織し、暮に山田の最初の管弦楽曲『曼荼羅の華』などの演奏会を帝国劇場で開いた。楽員は全部で90名、陸海軍軍楽学校、音楽学校、宮内省楽部、三越音楽隊からの寄せ集めだった。わが国最初の本格的な民間管弦楽団の誕生(後に解散)であった。
小彌太は「楽団の経営は一切君が一人でやるのだ」と、楽員の養成のほか切符売りまで、山田にまかせた。山田は元来算数が苦手で経営の才などない男で困り果てたが、後にこの経験が彼の交響楽運動に非常に役立つことになったのである。
その後も山田の芸術活動と私生活は多難だったが、小彌太は最後まで彼の音楽活動を支援した。後年、山田はこう追憶している。
「岩崎小彌太男爵と私によって、日本に始めて交響楽運動が興った。また真の作曲の道が創(はじ)められた。我が国音楽運動に岩崎男爵の名は永久に忘れられてはならない」(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年10月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。