
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.08 第一次大戦後の投機批判
小彌太は1916(大正5)年7月、三菱合資会社社長になった。時に38歳、当時は前々年7月以来の第一次世界大戦の最中だった。欧米からの外国製品が輸入できなくなって国内生産が増え、中国、東南アジアへの輸出も大幅に増えた。貿易収支は明治以来初めて黒字になった。
社長就任後の最初の仕事が会計監査だった。不都合な点があったとみえて大正6年1月、社長名の親展社内特別通知が出ている。
「最近各場所会計監査の結果、往々会計の整理が完全でなく、取締り不十分なものを発見した。まことに遺憾である。場所長の指図により帳簿に作為を加えたものもあった。その動機は私利私欲を計ることではなかったといえ、知らず識らず不正行為を誘発する機会を作り、ひいては社紀紊乱(びんらん)の端を開く事になる。実に寒心に堪えない。会計は事業経営の骨子を形作るものであるから、部下を督励しあえて背反することなきよう厳重にご指導頂きたい。云々」
さて戦争景気は休戦後の復興需要へと続き、休戦直前の大正7年7月には米価が大暴騰し、米騒動が起こった。寺内正毅首相退陣のきっかけになった事件だ。復興需要は大正8年夏以降白熱的な投機ブームとなった。しかしブームは短命で、翌大正9年3月15日、東京・大阪株式市場の大暴落で幕となった。これは当時、「ガラ(瓦落)」とよばれたが、いまでいえば「バブル」崩壊であり、投機的商法に走っていた古河、久原、などの大手商社や機械専門商社の高田商会、生糸輸出商の茂木合名などが倒産した。茂木商店の機関銀行、七十四銀行も倒産した。
一攫千金を夢見るな!
大正7年に創立されたばかりの三菱商事はこの不況の大波を受け翌大正8年下期、早くも損失を計上した。大正9年5月3日、小彌太は商事の幹部たちを本社に召集した。一同は厳しいお叱りがあると覚悟していた。ところが小彌太は、頑張って損を取り戻せなどとは一切言わなかった。商業の経済的機能は何かという考えをのべ、投機を批判し、生産者と消費者に対する商事会社の責任を果たすよう、その信念を語ったのだった。
「我々は大いに競争すべきである。Fair Competitionでどこまでも争うべきだ。競争を量の競争ではなく、むしろ質の競争にしたい。競争に熱中するあまり数字上の成績を挙げるため、手段方法を選ばないようになっては、我が社創立の伝統に照らして遺憾であり、全体の目的の破壊である。(中略)我々の仕事には原則として Speculation(投機)は排斥したい。広義に解釈すればLife itself is Speculationである。すべての事業にはSpeculative Elementのないものはない。しかし許すべからざる投機と、許すべき思惑との間には、常識をもって厳然たる区画を置くことが出来る。万一を僥倖(ぎょうこう)し一攫千金を夢み、暴利の獲得を目的とする投機と、精細なる調査研究の上に立ち、周到な計算による思惑との間には、その動機に大いなる差がある。この問題は、形式上の区別よりはむしろ当事者の動機に重きを置くべきである。世間の、今や滔々(とうとう)として射利投機に走りつつある今日、我々は此の風潮に倣ってはならないのである」
これは80年後の今でも通用する考えである。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。