三菱人物伝

志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.12 昭和金融恐慌

昭和は暗闇から始まり、光と闇が交互に訪れた。昭和2年は前年の暮れに大正天皇が亡くなり、正月は日本中が喪に服した。作家の永井荷風は元日の日記に「年賀状は少なく、通りには羽子板の響きもない」と記している。

早春3月15日、東京渡辺銀行が支払いを停止し、取り付け騒ぎが始まった。この背景には関東大震災以後に振り出された手形の不良債務の処理が遅れ、さらに投機商法にのめり込んだ神戸の鈴木商店など一部商社の債務を短期融資で引き延ばしてきた銀行の不良貸し出しがあった。

4月に入り、鈴木商店が破綻、メインバンクの政府系特殊銀行、台湾銀行が休業に追い込まれた。若槻礼次郎内閣も総辞職。続いて大手の第十五銀行が休業し、4月22、23日には全国の銀行が一斉に店を閉めた。

永井荷風は日記に書いている。

「4月22日 曇りて風寒し、……午(ひる)頃大工勇助来たりて市中の銀行一軒残らず閉店せし由(よし)を告ぐ、三時過(すぎ)散歩の途次(とじ)丸の内三菱銀行前を過(すぐ)るに22‐3両日休業の貼札をなしたり、銀座通(どおり)人出いつよりも少し……」

新蔵相・高橋是清は3週間の支払い猶予令(ゆうよれい・モラトリアム)を発令。日本銀行は特別融資を実施し、5月中旬になり、事態はようやく落ち着いたのである。

世界大恐慌の前触れ

取り付け騒ぎ当日の三菱銀行本店定期預金係の日誌によると、その日は朝から現金払いを求める客が多く、店頭の気配がざわついている。これは取り付けだと判断して支払い窓口を増設して対応していた。しばらくすると、反対に預け入れ客が殺到した。その多くは他店から引き出した現金を持ち込んできた客だった。

「私の前に現われたのは見すぼらしい婦人で内懐をもぞもぞして取り出したのは2000円の金でした。永年(ながねん)奉公してためた大事な御金ですからよろしくお預かり願いますというので、こちらも時が時だけに虎の子を当行に託した深い信頼に感激しました。……朝の9時から夜まで昼食も食べず夢中で働き続けました」

三菱銀行会長の串田萬蔵はこの時、東京銀行集会所会長として事態収拾のため奔走した。串田は高橋是清に見いだされて米国に留学し、ペンシルベニア大学ウォートンスクールで近代銀行経営の基本を学んだバンカーだった。ウオートンでは三菱の第三代社長・岩崎久彌と同学だった。

当時、三井銀行常務だった池田成彬(なりあきら)は三菱銀行がこの時とったポリシーについて後年こう言っている。

「銀行家としては私は満点じゃない。世間では三菱の串田、三井の池田と一緒に呼んで呉(く)れていたが、串田の方が一枚上でしたよ。というのは、串田は台湾銀行にもコールを出さない。鈴木商店へは勿論一文も貸さないのだが、私は鈴木商店にも金を貸し、台湾銀行のコールも出している。一体バンカーというものは、鈴木商店、台湾銀行のようなのには貸さないのが本筋なんですね。だから串田は銀行家としては私より上手(うわて)なわけです」(池田成彬「財界回顧」)

小彌太社長はこの時、社内ではとくに訓示を出していない。銀行のことは串田に任せるという方針だったのと、当時、体調が安定していないためだった。

この金融恐慌は、世界大恐慌の前触れにすぎなかった。(つづく)

文・宮川 隆泰

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年5月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。