
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.13 世界大恐慌と三菱の対応

1929(昭和4)年、アメリカでは「事業界の好況と投機熱の勃興とにより証券市場は著しき活況を呈し」ていたが「十月に入り俄然反動を来たした」(三菱銀行・同年下期営業報告書)。ニューヨーク市場の大暴落は恐慌に発展して欧米や日本を巻き込み、3年後に底を打つまで猛威を振るった。恐慌からの脱出に際して、日米欧主要国は国際協調に失敗し、10年後に世界を大戦争に巻き込んだのである。
不況で丸ビルの空室率は33パーセントにもなった。三菱商事の取扱高も昭和3年から6年の間に40パーセントも減少し、6年下期には赤字決算になった。3年下期から8期連続4年間無配だった。
三菱合資本社管理下の事業会社を分系会社といったが、その分系11社中、6年下期には赤字会社が3社(商事、電機、製鉄)、無配転落が2社(造船、石油)だった。続く7年上期には赤字が3社(造船、電機、製鉄)、無配が2社(商事、石油)。例外は金融、保険分野で、三菱銀行は昭和2年の金融恐慌の時の対応が功を奏して預金が激増し、安定した利益を計上し続けた。また保険事業や信託事業も安定していた。
母と姉と弟の相次ぐ死
さてこの時、小彌太社長はどうしていたか。実は病気でダウンしてしまったのである。昭和2年までは活発に動いた。昭和天皇が内燃機名古屋工場を視察された時にご案内したり、来日したアメリカ財界人と交流したり、筑豊炭鉱や長崎造船所に出張した。しかし翌年から行動力が落ち、さらに昭和4年に母・早苗、姉・繁子が相次いで他界、翌昭和5年には、2歳年下で才気換発の逸材といわれた次弟の岩崎俊彌が旭硝子(現・AGC)社長在任中にわずか50歳で急逝するという悲運に見舞われた。仕事のストレスも重なり、もともと生真面目な性格の小彌太は、夜おそくまで考え込むことが多くなった。
50代といえば一方で老化が進む。小彌太は巨躯肥満型だが、この時は極端な不眠症に陥り、しきりに睡眠剤をほしがった。主治医・佐藤要人は頑強に抵抗、彼は結局2年間、社長を休養させたのである。
この間、会社は誰が切り回していたのか。社長不在では権限を委譲せざるをえない。木村久寿弥太(本社総理事)、青木菊雄(常務理事)、串田萬蔵(銀行会長)、武田秀雄(造船前会長)の古参幹部がこれにあたった。小彌太社長が昭和6年末に社務に復帰した時、本社に社長室会をおき、社長を補佐する体制にした。この後、本社の分系会社に対する統制は次第に緩(ゆる)められていった。
短期的な対策としては、商事が抱えていた不良債権の切り捨て、各社での原価削減などがあり、特に長崎造船所では職員1916名を整理せざるをえなかった。
並行して長期的な対策がとられた。造船と航空機の両社を合併して三菱重工業とする、業務が重複する三菱海上火災保険の事業を東京海上火災保険に統合する条件を作る、三菱製鉄を新設の日本製鉄に売却する、などだった。さらに航空機、自動車や家庭用電器製品などの開発が着手され、また化学工業への進出が決定された。
昭和8年になり、景気は上昇に転じた。しかし、事業環境は一変していた。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。