
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.15 不況脱出と三綱領

小彌太が病癒えて社務に復帰した昭和6(1931)年末には、日本の社会は大恐慌に激しくゆり動かされていた。投機的商法に走り、企業倫理を逸脱する経営者も後を絶たず、政府の金融政策も不十分だった。さらに軍部が「難局打開」のため、中国大陸へ進出を強行した。
昭和5年に政府の金融政策の失敗のため、国民の血と涙の結晶である貴重な金正貨が大量に流出した。「円売りドル買い」により利益を確保しようとした一部の銀行と商社や財閥に、世間の非難が集中した。国粋主義的な運動家や一部の若手青年将校らは「財閥のドル買い」を糾弾し、ついに昭和7年2月、前蔵相・井上準之助が、翌月には三井合名理事長・団琢磨が、暗殺された。
当時、三菱商事は昭和3年下期以来8期連続で無配、6年下期には赤字決算だった。取扱高は三井物産に比べるとはるかに小さく、必要な外貨はすべて三菱銀行に依存していた。そのため、風当たりは三井ほど強くはなかった。また商事社内では昭和5年3月、三宅川百太郎会長が「不況に対する注意方通知」を出し、現在の不況は一層深刻になる、商品の手持ちは極力避け、やむを得ず思惑取引をする時には、なるべく短期にとどめるよう警告していた。
にもかかわらず、現実には商品によっては思惑限度を超えた取引による損失の発生は完全には防げなかった。とくに農産物や非鉄金属一次産品などでは、国際的な商品市場での損失を出していた。
さらに日本軍の中国大陸での軍事行動、国際連盟の調停失敗、世界的な金本位制の崩壊などのため、自由貿易が難しくなり、それまで外国貿易を主としてきた総合商社も国内取引に方針転換するようになった。
三綱領はなぜ出されたか
もともと小彌太社長は、商事は日本国内の商売にはあまり関係せず、外国貿易に重きを置いてほしい、と考えていた。同業の三井物産社内でも同じような意見があった。
昭和7年6月、商事の三宅川会長の通達によると「当社としても営利上やむを得ず国内品の内地販売に手を拡げるが、注意すべきは、取扱品の選択及び其(そ)の取扱方法である。もし措置を誤れば、(中略)ひいては三菱全体に累(るい)を及ぼさないとも限らない」
このような不況打開の努力のあと、昭和9年2月に、商事会社創立直後の小彌太社長の訓示が要約されて社是になった。これが近代日本企業の社是の代表作といわれる三綱領である。すなわち、
所期奉公
処事光明
立業貿易
第一は、創業の理想を示したもので、「国家社会の公益を図るべし」。第二は、「手段を選ばず術策を用いて巨利を博すような取引はするな」。第三は、不況対策として国内営業に展開する方針転換はあったが、「事業の根幹である対外貿易を忘れるな」という意味である。
この三綱領は、60年たった今でも三菱系の各事業会社で、共通の精神的資産として受け継がれている。今日風に言い直せば、社会貢献、フェアプレー、グローバリズムである。
この頃の小彌太の句に、
「元日やひそかに立つる志」
とある。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年8月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。