三菱人物伝

志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.16 三菱重工業の設立

1920年代(大正末期~昭和初期)は、長い造船不況が続いた。わが国第2の川崎造船所ではメインバンクの十五銀行が昭和2年の金融恐慌で破綻し、存廃の危機に直面した。

三菱の長崎と神戸の造船所も人員整理に追い込まれた。この不況に拍車をかけたのが、ワシントン海軍軍縮条約(1922年)だった。しかし、主力艦の建造が制限されるなかで、日本海軍は高性能の軍艦を建造しようとした。

三菱ならびに、神戸にあった川崎両造船所は不況で激減した商船建造を補うため、海軍からの受注を確保し、技術の向上を図った。

日本だけでなく、欧米の列強国も大型主力艦に代わる、潜水艦や航空機などの新兵器の開発・整備を開始した。

第一次大戦中から、長崎・神戸の両造船所では、船舶建造の技術をもとに多角化を開始していた。蒸気機関主体の舶用機関はディーゼル・エンジンへと発展、さらに自動車用・航空機用のガソリン・エンジンと機体の製造のために神戸造船所から内燃機部門が独立し、1920(大正9)年、名古屋に三菱内燃機製造株式会社が設立された。また翌年には、各種電機機器を製造する三菱電機株式会社が新設された。さらに1928年、三菱内燃機は三菱航空機と改称した。

しかし、いずれの会社も収支は不振。1931(昭和6)年下期には電機は赤字、造船は無配、翌7年上期には電機、造船両社が赤字だった。一方、航空機会社は軍の発注と助成で安定した利益を上げていた。そこで小彌太社長は、造船・航空機両社を合併して新会社にすることを指示した。社内からの提案ではなく、社長が発案しトップダウンで強力に進められた。彼の考えの基礎は経営の合理化にあった。第一に造船と航空機は設備、技術など経営資源が共通なので運営を一元化したほうが技術進歩が早い、第二は経理面の考慮で、造船と航空機は仕事量の繁閑が違うので統一して経営したほうが経理上の効率がよい、というのがその理由だった。

陸海軍の反対を押し切る

ところが、この合併に社の内外から反対意見が出た。三菱の社内から出されたのは、新会社は厖大な機構になり、運営が問題だという意見である。また造船と航空機の技術者は同じ三菱の中でも、割拠して唯我独尊的に振る舞う雰囲気があった。三菱伝統の部署別縦割り体制がこれを助長していた。

さらに軍部からも反対意見が出た。陸軍と海軍は航空機開発を競争していたため、造船と航空機が合併すると、新会社に対する海軍の立場が強くなるとして陸軍がまず反対。海軍の中でも造船会社を監督していた艦政本部と航空機会社を監督する航空本部とが対立した。しかも、航空機会社は陸軍からも受注しているから、陸軍も口出しする。航空機の研究開発の助成金が長年不振の造船の方へ回される恐れもある……。陸海軍の縦割りの下にさらに海軍部内の縦割りが合併反対の声となったのである。

しかし小彌太は自説をまげず、強い指導力を発揮してこれを突破、こうして1934(昭和9)年4月、三菱重工業株式会社が創設された。

小彌太の、長期的な戦略判断の勝利だった。また「重工業」という名称も小彌太の発案だった。(つづく)

文・宮川 隆泰

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。