三菱人物伝

志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.17 新規事業への進出

大正末期から昭和初期にかけて不況の嵐が吹きまくり、三菱各社とも業績低下に苦しんだが、その中で新規事業分野への進出が続けられた。

まず、「三菱A型」乗用車である。これは、神戸造船所内燃機工場に運び込まれた、小彌太が副社長時代に使ったイタリア製の乗用車フィアットをモデルに試作されたもので、1918(大正7)年11月に完成した。翌々年の3月、東京に販売店が設立されたが、販売は不振。わずか1年、合計22台で生産は中止された。まだ日本では乗用車は時期が早すぎたことと、さらに軍部から「自動車より飛行機をやれ」という命令に近い圧力があったからである。日本海軍は艦載機を中心とする航空機の質的・量的な整備を開始し、三菱に大いに期待していたのである。

三菱航空機の名古屋工場では、イギリス人技師の指導を受けて、艦載戦闘機の試作と製造が開始され、1921(大正10)年に国産初の10式艦戦が完成した。木製骨組み、布張りの複葉機で、ライセンス生産されたフランス製エンジンを搭載し、時速237キロで飛行した。この時はまだ輸入技術で、独自技術ではなかったが、これがその後の名古屋での長い航空機生産のスタートだった。

一方、神戸では潜水艦を建造したが、まだ潜望鏡が作れなかった。そこで、小彌太は専門家や関係者と協力して、1917(大正6)年、日本光学工業株式会社(現・株式会社ニコン)を設立し、みずから筆頭株主になった。戦前は光学兵器と理化学機器が中心だったが、第二次大戦後、民生用カメラ・ニコンの製造に転換。1950年代の朝鮮戦争で、米国従軍カメラマンがこのニコンの性能を発見し、一躍、高級カメラとして有名になっていく。

化学の分野では、1934(昭和9)年、日本タール工業株式会社が設立され、石炭化学製品の生産が開始された。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)と旭硝子(現・AGC)の折半出資で、工場は北九州の牧山骸炭(コークス)製造所と黒崎だった。昭和11年に社名を日本化成工業株式会社にした。化成とは中国の古典の『易経』をもとにした小彌太の造語で、宇宙万物の生成発展を意味していた。

いっそ小田急で逃げましょか

さて話題は変わって、昭和2年の金融恐慌の真っ最中に、小田急電鉄が新宿=小田原間の電車運転を始めた。関西、関東で私鉄の開業が相次ぎ、東京、大阪周辺の国鉄線(現在のJR、当時は省線といった)も電化され、地下鉄も開通した。

ラジオ放送、甲子園野球場、六大学リーグ戦などもこの頃始まった。新宿が東京の新しい盛り場になった。

三菱電機も発電機や船舶用の電気機器から民生用の小型モーターや家電製品の開発に乗り出した。初めて売り出した扇風機に欠陥があり、買い戻しするなど苦労したが、次第に市場で受け入れられていった。電鉄用主モーター、とくに制御器は電機の得意分野で、小田急の新宿=小田原間の電気工事一式と電車の車体を受注した。

「小田急」はこの時代を象徴する話題になり、ヒット曲『東京行進曲』でも、♪シネマ見ましょかお茶飲みましょか、いっそ小田急で逃げましょか~と歌われたほどだった。

しかしこれは若者のささやかなため息だった。時代は急速に戦争へと向かっていった。(つづく)

文・宮川 隆泰

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年10月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。