
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.18 二・二六事件から第二次大戦へ

1936(昭和11)年2月26日大雪の朝、「二・二六事件」が起こった。急進派軍人たちの保守的・自由主義的政治体制に対するクーデターだった。首相官邸などが襲撃され、高橋是清蔵相らが暗殺された。青年将校たちは、農村の窮乏を訴え、財閥を非難し、国防力増強を要求した。小彌太は高橋とは英国留学時代からの付き合いで、彼の身も危険になり、警視庁は東京を離れるよう要請。小彌太は、「おれは逃げ隠れするのは嫌だ」と渋ったが説得され、兵庫県の武庫川畔の甲子園ホテルに避難した。関西の様子は静かだったため、小彌太は気晴らしにゴルフにでかけ、東京本社から叱られた。このあと、社会の情勢は一変。軍部の本格的な政治介入が始まった。
軍部、政治家、経済界などの利害がからみ、国内の政治情勢は複雑だった。翌年の初め、軍を抑えるには軍の長老がよいということで、昭和天皇は陸軍大将、宇垣一成に組閣を要請した。宇垣が姫路師団長だった大正10年に神戸の三菱・川崎両造船所で大争議が起き、鎮圧のため出動を命じられたが、宇垣は兵を神戸の近くまで出動させたまま、工場には突入させなかった。このとき、彼は「民衆の鎮圧のために軍を使うべきではない、刀の抜き方には工夫がいるのだ」との名言を残したという。また「宇垣軍縮」を実行し、陸軍兵力を削減した。
しかし革新将校グループは宇垣を支持しなかった。宇垣は組閣に失敗し、別の陸軍大将・林銑十郎が首相になった。小彌太は平和維持のために宇垣に期待をかけていたので、その流産を非常に残念がった。
その直後の7月7日、北京郊外盧溝橋で日中両軍が衝突した。ここは北京郊外の景勝の地で、マルコ・ポーロも『東方見聞録』に書いた白い優雅な大理石の橋がかかっている。その橋のたもとで日中両軍が小競り合いを起こした。いったんは現地軍の間で停戦が成立したが、外交交渉は難航し、1938(昭和13)年1月、時の近衛文麿首相が「爾後(じご)(蒋介石の)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明、ついに本格戦争に突入した。
三菱本社の株式公開
こうして戦時経済統制が始まった。企業の設備資金の借り入れや増資などが政府の認可事項になり、外国貿易も統制下におかれた。自由な企業経営はできなくなった。しかも軍備拡張のための資金要請は大きかった。
1937(昭和12)年に三菱地所会社が独立したのを最後に、事業会社は本社の統括を離れて独立の株式会社になっていた。小彌太社長はその年の10月、創業以来、岩崎家の出資によって支えられてきた三菱合資会社を株式会社三菱社に改組し、本社は事業会社を統括する持ち株会社になった。そして3年後の1940(昭和15)年に資本金を2億4000万円に倍額増資し、初めて株式を公開した。
小彌太はこう訓示した。三菱の事業はもはや岩崎家の事業ではなく、社会の多くの利害が加わっている。事業は社会的、国家的なものになった。また戦争が始まってから三菱は国策に沿い軍備拡充と生産力増大に総力を投入している。そのため広く社会資本を求める方式を作りたい。
日本は戦時経済一色になり、第二次大戦に向かっていった。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年11月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。