
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.19 第二次世界大戦と産業報国
1941(昭和16)年12月8日、日本海軍のパールハーバー攻撃で、日本は太平洋戦争、つまり第二次世界大戦へ突入した。2日後の12月10日、小彌太社長はのちに有名になった社内訓示をした。自分はこれまで種々意見を言ってきたが、国家の方針が決まった以上、国民としての義務を果たすため全力を尽くす。ただこれまで事業上のパートナーだった英米の旧友との友情を忘れるな、という内容だった。国全体が開戦のニュースに興奮している最中に、このような冷静で大局的な考えを述べたことは、幹部たちに深い印象を与えた。
さらに、小彌太はアメリカの提携企業だったウエスチングハウス電機とアソシエーテッド石油の両社の三菱内部における投資を適法に保護することを指示した。
社長の戦争に対する考え方は一貫していた。それは産業を通して国家に寄与するというものだった。敗戦後、連合国総司令部が財閥本社の自発的解体を要求した際、小彌太は三菱はかつて軍部と結んで戦争を挑発したことはない、国民としての義務を果たしたのだと頑強に抵抗したのも、このような信念からきていた。
戦争に対する経営者の姿勢にはいくつものタイプがあった。第一は軍部の革新派の主張に共鳴し積極的に戦争に協力したグループである。大陸進出を推進した鮎川義介などのいわゆる新興財閥や、大陸市場の開発に熱心だった津田信吾(鐘紡)や小林一三(近衛内閣商工大臣)など。
第二は旧財閥の総帥としての識見や最高経営者としての力量から、乞われて戦時内閣の大臣になった人たちである。三井合名総理事の池田成彬(近衛内閣大蔵大臣、商工大臣)、住友本社総理事の小倉正恒(近衛内閣国務大臣)、王子製紙社長の藤原銀次郎(東条内閣国務大臣)など。軍部は国家総動員体制の中でトップ経営者の指導力を利用したのである。
政治不関与の姿勢
一方、産業報国に徹し、政治不関与を貫いたごく少数の経営者がいた。岩崎小彌太がその一人だった。戦争が日本に不利になった1943(昭和18)年8月、東条英機首相は、三菱重工業の郷古潔会長を内閣顧問に任命し、軍需生産を全面的に指導させようとした。しかし小彌太社長はこれに強く反対し、役職員の政治不関与を指示した。
よくドイツのクルップと日本の三菱は戦時中に軍需生産の中心だったので「軍需廠(ぐんじゅしょう)」といわれる。しかし両者には重要な違いがある。それはクルップはナチスの政治理念を支持し、その創成時代から資金援助をしていて、大戦後、連合国から厳しく追及された点である。これに対して小彌太社長は産業家の政治関与を潔癖なまでに嫌っていた。
昭和17年に合繊メーカーの新興人絹が日本化成(のちの三菱化成)と合併した際、新興人絹の賀集益蔵(戦後、三菱レイヨン社長)は日本化成の常務に就任したので、社長に挨拶に行った。
この時、小彌太は「自分は日本がこんな大戦争をするようになったことはまことに不本意であるが、事今日に至った以上は事業人として国家目的への協力と国民生活の安寧とに力を盡くさねばならぬと思う。今後一緒に仕事をしていくのだから、この趣旨にそって努力してもらいたい」と言った。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1999年12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。