
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.20 空襲下で現場を激励
1944(昭和19)年になり、ヨーロッパ戦線では連合軍がフランスのノルマンディーに上陸、太平洋戦線でも米軍がサイパン島を占領した。とくにサイパン失陥は日本には大打撃で、ここから長距離爆撃機B29の日本本土爆撃を受けることになる。
11月24日、米戦略空軍第21爆撃戦隊は、その最初のターゲットを東京郊外の中島飛行機武蔵野製作所においた。続いて12月13日、18日の両日、三菱重工業・名古屋発動機製作所(大幸工場)、同航空機製作所(大江工場)が攻撃された。これらは日本航空機生産の中心であった。13日には従業員と動員学徒から264名、18日には230名の死者が出た。
1945年3月10日から夜間都市爆撃が始まり、国内の主要都市が被害を受けた。小彌太は東海・関西方面の工場を視察して従業員を激励したいといい、5月に周囲の反対を押し切って決行した。
すでに鉄道が不通だったので自動車で出発、東海道を西に向かったが、19日に浜松の手前で米軍の絨椴(じゅうだん)爆撃に遭(あ)い、道端の防空壕に避難した。やむなくいったん熱海別邸に引き返し、22日に再び西下した。小彌太は、句帳を持参していた。
23日、大井川近くまできた時、小夜(佐与)の中山を見たいと思い立った。中世の歌人、西行が
年長けてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山
と詠った、名所である。
「19日天竜川を越へし時突然空襲爆撃に遭ふ。難を路傍の壕に避く。前路進むによしなくやむなくひき返し数日後再び西に向ふ。佐与の中山を越ゆる時
夏山を再び越ゆる命かな
小夜の中山にて夜泣き石と云ふ石を見る
石古りて今を昔の若葉かな
天竜川にて前日の危難を車上に思ひ浮かべて
うつせみの此の身かそけし蝿のごと」
名古屋の三菱重工では、岐阜の山間部に地下工場を掘って生産を続けようとした。小彌太はこのトンネル工場建設現場を視察した。空襲下に突然現れた社長の激励に工事担当者は感激した。その一人の村上勇はこの時の小彌太の姿を長く忘れなかった。戦後、彼は国会議員と閣僚になった後も、三菱の事業を気にかけたが、それはこの時の小彌太の決死の激励が遠因になっていた。
5月25日夜の東京空襲で、麻布・鳥居坂の小彌太邸も全焼した。この夜、小彌太は岐阜長良川畔の宿に泊まっていた。
「話半ばにして東都より報あり昨夜大空襲ありて自邸も全焼せしといふ 住み馴れし幾年月の鵜籠かな」
関西の工場を激励して6月上旬、再び空襲下の東海道から熱海へ帰った。中旬に帰京した時、小彌太は鳥居坂の焼け跡に立った。
愛惜の物皆焼けて月涼し
この頃、本社参与・松岡均平に送った手紙にはこう書いている。
「緊迫せる情勢下つとめて諒々たる余裕を持することが最も必要なることと致して居りまして、御来示の通り俳句を通して自然に親しみ自然の懐に入って人生を達観し得るよう努力致して居りますが、中々小人には難しい事であります」
8月、戦況はもはや絶望的になり日本は無条件降伏となったのである。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年1月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。