
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.21 敗戦と本社解散
1945(昭和20)年8月には、戦況はもはや絶望的となった。小彌太は空襲下の現場視察という無理がたたって体調が悪化し、熱海の別邸で臥せってしまった。そして8月15日の昭和天皇の終戦の放送を、病床で聞いた。この日の気持ちを詠んだ句が残されている。
「8月15日
天も啼け地も泣け秋の一葉して」
数日後、小彌太は部下の一人にこう書いている。
「(前略)15日放送を通じ陛下の玉音に接し涙滂沱たるを禁じ得ず、爾来謹慎沈思黙考に日を送って居ります。不可能を可能ならしめんとして渾身の努力を傾倒し来れるも、事ここに至っては今更乍ら心身の疲労を覚えて居ります。」(三菱本社総理事船田一雄宛手紙)
9月2日、東京湾上の米国戦艦ミズーリ号上で日本政府は無条件降伏文書に調印、連合国軍の日本占領が始まった。米国の初期対日方針の重要項目の一つが財閥解体だった。「日本の商業・工業の大きな部分を支配する産業と金融の大企業結合を解体する計画を助成する」と明記されていた。
連合国総司令部(GHQ)は、まず三井・三菱・住友・安田の四大財閥を自発的に解体させるよう日本政府に指令した。手始めに9月25日にはGHQ高官が三菱本社に来社し、三菱商事会長・田中完三と会見、三菱本社の自発的解体を要求した。田中は英文で長い意見書を作り、三菱の成り立ちや戦争中にとった態度などを詳細に説明し、GHQに出した。しかし効果はなかった。最初に安田が自発的に本社解体を表明し、住友、三井本社も従う気配になった。
信念に基づいて抵抗
ところが、病床で状況報告を受けた小彌太は、三菱本社が自発的に解体しなければならない理由はないと GHQの要求を受け入れなかった。
「三菱は国家社会に対する不信行為を為した覚えはなく、また軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。国策の命ずるところに従い、国民として為すべき当然の義務に全力を尽くしたのである。いわんや三菱は社会に公開せられ、1万3千名の株主を擁している。自分は会社に参加せられた株主各位の信頼に背き自発的に解散することは信義の上からも断じて為し得ない」
これは、小彌太の長年の信念だった。そこで GHQは小彌太に面会を要求した。彼は10月下旬に上京して麻布・鳥居坂の本邸焼け跡の土蔵に泊まりこみ出社した。そして本社の幹部と協議し、あくまで自発的解散はしないが、日本政府の命令があった場合にはやむなくこれに従う方針を決定した。
大蔵大臣・澁澤敬三も三菱本社に説得に来たが、小彌太は譲らなかった。しかし交渉の3日目に体調が急変してダウンし、10月29日に東大病院に運びこまれてしまった。
社長が倒れた日の夕方、四大財閥代表が呼び出され、共同で解散声明を出せとさらに要求されたが、商事の田中会長は回答を保留して帰社し、本社総理事船田一雄と協議、やむなく政府の要請を受け入れた。10月31日、本社社長名で社内に本社解散の声明が伝えられ、翌11月1日、三菱本社定時株主総会で本社の解散と、岩崎小彌太の社長退任が決議されたのである。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。