
三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.22 最期の日

丸の内の本社で GHQの財閥本社解体要求に抵抗しているうちに、小彌太の体調が悪化し、1945(昭和20)年10月29日、東大病院坂口内科に緊急入院した。
しかし、敗戦直後のため、東大病院でも部屋を暖める薪炭や注射用のアルコールも不足していた。必要な薬も八方手を尽くして探し求めねばならなかった。小彌太の老人性動脈硬化が進んで下腹部の動脈瘤が肥大し、静脈圧迫による足のむくみもきていた。敗戦による心労が、これに拍車をかけた。
11月1日には三菱本社の定時株主総会が開かれ、小彌太は社長を退任し、三菱本社の解散が声明された。
この前日の10月31日に、小彌太は社長告示を伝達した。この最後の告示は公表される機会がなくずっとあとの昭和27年になって三菱本社の清算が完了した時に、旧株主に配布されたものである。
まず初めに終戦後の心境を率直に述べ、大戦中の社員の奮闘に感謝し、犠牲になった人々をくやみ、会社を去ろうとしている人々に惜別の気持ちを述べた。
「思うに新事態の出現は常に社会の進化的開展を要請する。いま戦後の国情に照らして特に産業経営者の利潤独占に対する非難の声がある。
産業が利潤を離れては存在しないことはいうまでもないが、利潤の公正な用途と配分とは経営指導者のもっとも注意すべき所である。
自分は常に産業の使命が国利民福にあると主張し、個人の利益を図ることは第二義であるとしてきた。これすなわち産業人の職域を通じて行なわれる奉公の大義である」
秋さまざま……
11月5日の朝、主治医の佐藤要人が病室に入ると、枕頭で看護していた孝子夫人が「句を書かれましたよ」と一片のメモ紙に鉛筆で無造作に書かれた句を渡した。
秋さまざま病雁臥すや霜の上
小彌太が孝子にこのメモを見せた時、「霜の上とは真白いシーツの上に横たわっていることだよ」と言った。暖房がない病室の冷たいシーツを霜と表現したのである。佐藤はこの句を見た時、なんとなく胸騒ぎがした。予感は当たった。これが小彌太の辞世の句になったのだ。
この頃、三菱本社総務部長の石黒俊夫に宛てたメモが残っている。
「本社はいかなる形となるとも、我等の永き精神的結合は永続し、三菱に属したる各事業は将来とも従来の三菱式精神をもって経営せらるることは疑いを抱かない。かつ各個の事業は将来の情勢に応じ、永続し得るのであるから其点は諸君の努力精進に待つ。我等の精神的つながりは連合軍も如何ともし難いことと思う。
諸君の御健康を祈り、ますます事業のために奮闘されんことを祈る」
これが三菱各社の幹部に対する別れの言葉になった。
冬が近づき、病状は日増しに悪化していった。12月2日夜、容体が急変し、大動脈が破裂して小彌太は亡くなった。
享年66。
遺骸は翌日高輪の旧岩崎邸開東閣に移されて通夜が行われ、12月6日、築地本願寺で葬儀が行われた。遺骨は、東京の世田谷区岡本にある静嘉堂文庫に隣接した岩崎家墓地・玉川廟に葬られた。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年3月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。