三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。川田小一郎

三菱時代の川田と茅場町の社屋。
三菱時代の川田と茅場町の社屋。

岩崎彌太郎より2歳年下の川田小一郎、高知の西の小さな村に生まれた。親は藩士とはいえ貧困そのものの生活。が、世は時代の変革期、若者には無限のチャンスがあった。

川田は抜群の理財の才が認められて、藩の会計方に登用された。松山藩の旧幕府資産を接収するにあたっては乾(いぬい)(板垣)退助の旗下に入った。別子銅山の接収には現場責任者として乗り込んだが、総支配人広瀬宰平(ひろせさいへい)の捨て身の嘆願に耳を傾けた川田は「操業現場の混乱は国にとって得策ならず。住友が幕府から得た稼行権をこのまま認めるべき」と判断、明治政府にその旨進言した。『住友別子鉱山史』に「広瀬支配人のよき協力者となる御差繰方(おさしくりかた)の川田小一郎…」との表現があるが、住友では今でも川田に感謝してやまない。

話変わって明治3年(1870)大阪。九十九商会が土佐藩直営の高知/神戸航路を引き継ぐ。翌年川田も幹部として加わった。7月、廃藩置県が断行され、九十九商会は純民間会社に組織替え。藩邸の責任者だった岩崎彌太郎が天下って社主になった。

彌太郎はまず、配下に入ることを潔しとせぬ者の退社を促した。やる気ある者のみでやるのだ。強いリーダーシップの下での新生九十九商会。勇将の下に弱卒なし。

陸での展開を強力に推進

6年、社名を「三菱商会」とする。7年、新興三菱は満を持して本社を東京に移転、富国強兵・殖産興業の国策に沿って海運事業にヒト・モノ・カネを注ぎ込む。立ちはだかるは内外のライバル。

圧巻は10年の西南戦争。三菱は総力をあげて政府軍の輸送にあたる。「国あっての三菱」の本領発揮。社長独裁、即断即決、有言実行の三菱。管事(注1)として指揮を執るのは石川七財と川田小一郎。三菱は政府の期待に完璧に応えた。

川田が若き日に別子で得た知識と経験は、その後の三菱の吉岡銅山や高島炭坑の取得に活かされた。勉強熱心な川田。高島炭坑では取得後あらためて外国人技師に石炭の埋蔵状況を調査させ、自ら開発計画に関与した。

15年、盟友石川七財が急逝する。長州閥の政府と三井の連合軍である共同運輸との、会社の存亡をかけたビジネス戦争は2年以上に及んだ。川田は昼に夜に、まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍だった。

18年2月、末期癌の彌太郎が無念の臨終に近づいたとき、川田は彌之助とともに枕辺に呼ばれた。「…川田よ、もう一度盛り返したかった…あとをたのむ…」。

彌太郎の歿後、川田らの根回しにより状況は急展開、ほどなく競合2社は合併することになり『日本郵船』が誕生した。三菱は海運事業を手放し「海から陸へ」転戦する。看板も『三菱社』に改めた。社長の彌之助を輔(たす)ける管事の川田は、炭坑、金属鉱山、造船といった近代国家の基幹産業への集中的な投資を推進する。結果、三菱は、明治日本と軌を一にして発展、一大産業資本に成長していった。

川田は岩崎家にとってパートナーともいうべき特別な存在だったが、24年(1891)に久彌が米国留学から戻り彌之助の下で副社長に就くのを見届けると、あっさり三菱の管事を退いた。若き日の別子でもそうだったが、大局をつかむとともに、退くタイミングを知っている川田だった。


熟年の川田の肖像と日銀の建物
熟年の川田の肖像と日銀の建物

明治14年(1881)大蔵卿になった松方正義(まつかたまさよし)は、維新以来のインフレ克服のために緊縮財政と増税を実施した。15年には日本銀行を設立、紙幣発行権を集中し銀兌換(ぎんだかん)制度の確立をめざした。

それから7年、その松方が、黒田清隆内閣での大蔵大臣のとき、こう考えた。「日銀は近代日本の根幹。大局を見ることの出来る強い総裁を据える要がある。薩長の寄り合い所帯である元老や閣僚に対して毅然として意志を通すことの出来る人物。となると、岩崎彌太郎とともに三菱の今日を築いた川田小一郎しかいない」。

土佐藩出身の川田は、明治3年(1870)の九十九商会の発足以来、石川七財とともに、飛車と角のように彌太郎体制を支えてきた。特に海運を仕切っていた石川七財が15年に他界してからは、彌太郎・彌之助両社長の公私にわたる補佐役・経営幹部として重きをなした。三菱と共同が合併して日本郵船が発足する際には、井上馨や伊藤博文、松方正義ら同床異夢(どうしょういむ)の政府高官たちの根回しをやってのけた。

川田が松方の強い推薦で日銀の第3代総裁に就任したのは明治22年だった。川田は歴代の総裁の中で最もスケールの大きい総裁だったと言われる。経済も分かる。計数にも強い。しかも確かな国家観を持っている。

行員たちは川田の博識と鋭敏な感性に脱帽した。ほとんど日銀に出勤せず、行員を自宅に呼びつけて報告させ指示した。松方の後任の渡辺蔵相も川田邸まで出向かざるを得なかった。

日銀の法王

「日銀の法王」と言われた川田は、明治23年の恐慌を乗り切り、日銀の中央銀行としての機能を確立した。日清戦争の資金調達もやった。かたわら機構改革や支店網の拡充、人材の登用など、日銀内部の問題も木目細かくさばいた。

ところで、現在の日銀の本館は川田総裁の時に建設されたものだ。「…今日では広壮華美だと見られても、十年後には普通堅牢の建物になる」と、川田は巨額の建築費を惜しまなかった。設計はジョサイア・コンドルの弟子で後に東京駅も設計した辰野金吾。

本館建設の日銀の担当者は後に日銀総裁・蔵相・首相にまでなった高橋是清だった。ペルーの銀山開発に失敗して浪人同然の生活をしていたところを川田に目を着けられ入行した。これだけでも川田の功績は大きい。

大した学歴のなかった川田は偏見がなかった。広く人材を登用し、有能な者は海外に留学させたり高等商業(現一橋大学)に国内留学させるなど、人材の育成に意を払った。

23年帝国議会開設と同時に貴族院勅撰(ちょくせん)議員となり男爵を授けられた。翌24年に彌太郎の長男久彌が米国留学から戻ると三菱の管事の肩書きを返上。ワンマン総裁7年目の明治29年、60歳で急逝した。

最後に川田の長男龍吉について。龍吉はスコットランドで船舶工学を学び、日本郵船に勤務、横浜船渠(せんきょ)(後の三菱重工業横浜造船所)の社長になった。最後は経営不振の函館船渠に招かれて辣腕(らつわん)を振るった。函館近郊に農場を建設、スコットランドのじゃがいもの味が忘れがたく北米原産の種いもを輸入して植えた。北海道の地に馴染んだそのいもは、後日、川田男爵にちなんで『男爵薯(だんしゃくいも)』と呼ばれるようになった。

  • (注1)

    社長に次ぐ立場。

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年8、9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。