三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。豊川良平

若き日の豊川良平と当時の東京
若き日の豊川良平と当時の東京

豊川良平(とよかわりょうへい)は嘉永5年(1852)、土佐藩の町医者の家に生まれた。従兄の岩崎彌太郎は17歳年上。豊川の父と彌太郎の母が兄妹だ。幼い時に両親が亡くなり、岩崎家に引き取られて彌太郎や彌之助と兄弟同様に育った。藩校の致道館(ちどうかん)では漢学を学んだ、というより腕白(わんぱく)のかぎりをつくした。大阪では彌太郎のいる土佐藩邸に居候(いそうろう)し「英語を勉強した」、ということになっているが、それで納まっていたとは考えにくい。彌太郎が三菱商会を率いて東京に進出すると、豊川も意気揚々と上京、慶應義塾に入った。

慶應義塾でも土佐弁丸出しで、天衣無縫(てんいむほう)ぶりを発揮した。当然成績はよろしくなかった。が、なぜか彌太郎の信頼が厚かった。卒業の年に彌太郎の長男の久彌が慶應の幼稚舎に入ると、三田の下宿に同居して生活を指導するよう頼まれている。

豊川はもともと小野春彌(おのはるや)と言ったが、ある時一念発起して豊川良平と改名した。豊は豊臣の豊、川は徳川の川。良は張良(ちょうりょう)※1、平は陳平(ちんぺい)※2から採った。そんなことが可能な時代だった。後年、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が豊川の名前のいわれを聞いて、「まるで酒と水と酢と醤油を一緒にしたようなものではないか」とあきれた由だが、案外豊川の本質をついているかもしれない。

慶應義塾を出ると言論活動に身を投じ、犬養毅らと「東海経済新報」を創刊した。明治12年(1879)に三菱に入社、三菱商業学校や夜間学校である明治義塾の運営に携わり、時にはピンチヒッターであやしげな英語を教えたりしながら、組織や時間に縛られない生活をエンジョイした。

人を見る目の確かさ

しかしこのフリーな生活の中で、荘田平五郎(しょうだへいごろう)(のち三菱の最高幹部)、加藤高明(かとうたかあき)(政界に転じのち首相)、山本達雄(やまもとたつお)(日銀へ移りのち総裁)、吉川泰二郎(よしかわたいじろう)(のち日本郵船に転じ社長)といった人材に声をかけ、三菱にリクルートしているのだからすごい。自由な、さまざまな人との関わりの中で、若い才能を見極める眼力を養い貯えていたのだ。

永らく続いた景気が翳(かげ)りを見せ、明治10年代後半になると海運も不況に陥った。荷為替貸付(にかわせかしつけ)を行っていた三菱為換店(かわせてん)は業務縮小を余儀なくされついに18年廃業となった。一方、臼杵(うすき)藩士たちが設立し経営が行き詰まった第百十九(だいひゃくじゅうく)国立銀行を、同じ武士の窮状を見過ごし得ずと彌之助が買収した。頭取には旧三菱為換店の元締(もとじめ)だった肥田昭作(ひだしょうさく)を充てた。不況下でダンピング合戦に突入していた三菱と共同運輸は、政府の斡旋で合併し「日本郵船」となった。

海運事業を切り離した三菱は明治19年(1886)に「三菱社」を設立、豊川良平は本社事務に任用された。自由だった豊川の生活は一変、やがて肥田の後を襲って第百十九銀行の頭取になる。銀行の実務に疎い豊川は、日常業務は100%信頼する生え抜きの三村君平(くんぺい)に任せた。

28年になって、新たな銀行条例を踏まえて三菱合資会社に銀行部が創設され、豊川が部長に就任、第百十九銀行を吸収合併した。銀行部は、富国強兵・殖産興業の国策にそって展開する三菱合資会社の事業と、裏と表の関係にあった。世間の信用は高まり、預金は大幅に伸び、産業銀行的役割を担った。それは、豊川の広い視野と三村の堅実さがうまく機能した結果だとも言われる。


豊川良平 ・順彌親子と若き水谷八重子が乗るオートモ号
豊川良平 ・順彌親子と若き水谷八重子が乗るオートモ号

岩崎彌太郎の従弟である豊川良平(とよかわりょうへい)は土佐っぽそのもの。豪放磊落(ごうほうらいらく)。三菱の幹部になってからも土佐弁丸出しで、慣れない人にはなかなか聞き取れなかった。しかも話は要領を得ない。が、いつのまにかややこしい話をまとめてしまう。明るい酒。気配りの酒。義侠心(ぎきょうしん)に富み包容力がある。そんな豊川を、「雄弁をふるうことは出来なくとも座談に長じた人」と荘田平五郎(しょうだへいごろう)は評している。

豊川が岩崎彌之助に説得されて言論人としての自由な生活を切り上げたのは明治19年(1886)、34歳のとき。本社事務になり、三菱が買い取った第百十九国立銀行に持ち場を得て、やがて頭取になった。三代目社長久彌の時代になって、28年に三菱合資会社は銀行部を創設した。部長は豊川。第百十九銀行を吸収合併した。

金融業界では新参者だった豊川だが、その人柄のゆえに、いつしか業界のリーダー的存在になっていった。銀行倶楽部委員長、手形交換所委員長などの公職も引き受けた。

豊川は、慶應の幼稚舎に通う13歳年下の久彌の生活指導をして以来、久彌の後見役を任じていた。彼と保科寧子(ほしなしづこ)との縁談にも豊川が終始付き添い、「もう後戻り出来ませんぞ」と久彌に念を押しながら、保科家や寧子の母の実家である伊達(だて)家に赴いたという。

三菱に入ろうと思うな、自力で道を拓け

豊川の活動は金融だけではなかった。日本郵船、猪苗代水力など多くの会社・事業に関与し、「二×二が四では現状は打開できない。二×二を五にする工夫をしろ」というのが口癖だった。

人との付き合いを必ずしも得意としない久彌社長に代わり、三菱の代表として縦横無尽に財界活動を行った。「三菱の大蔵大臣兼外務大臣」とも言われながら築いた人脈は多彩で、大隈重信や渋沢栄一といった大物の信頼も厚かった。43年には荘田の後を継いで管事(三菱の最高幹部)になった。

豊川は大正2年(1913)に三菱をやめた。東京市議になって政治家志向だった若いころの夢を実現し、やがて貴族院議員になった。三菱合資会社の銀行部は大正8年に三菱銀行として独立し新たな段階に入ったが、豊川はそれを横目で見ながら、翌9年68歳で病没した。

豊川は、日ごろ自分の子どもたちに「お前たち、三菱に入ろうとは思うなよ。三菱では岩崎を超えられぬ。自力で道を拓け」と言っていた。とはいえ、長男の順彌(じゅんや)が東京高等工業学校(現東京工業大学)に入ると各地の三菱の工場を見学させるなど、親らしい配慮はしている。

その順彌は卒業を待たずに巣鴨に機械工場「白楊社(はくようしゃ)」を興し、父の死の床で同意を取りつけると、遺産すべてを自動車製作に注ぎ込んだ。純国産技術で完成させたオートモ号は、東京~大阪間の40時間ノンストップ走行に成功した。日本最初の「量産自動車」となり、生産台数は当時としては破格の300台を記録した。大正14年(1925)には上海向けに輸出され、日本最初の「輸出自動車」にもなった。

しかし事業としては成功しなかった。豊川の遺産を遣い果したとき、「白楊社」は倒産した。が、先祖の姓を冠したオートモ号は歴史にその名を残した。空冷直列4気筒、943CC。現物は残っていないが、最近図面をもとにトヨタ博物館と国立科学博物館が共同で復元し、走らせることに成功した。

  • ※1・※2

    いずれも漢の高祖の功臣

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年1、2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。