三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。ジョサイア・コンドル

鹿鳴館の外観と若き日のコンドル
鹿鳴館の外観と若き日のコンドル

尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張していた長州藩の井上馨(かおる)や伊藤博文たちが密かに英国に渡って世界を垣間見ていたことはグラバーの項で述べた。明治になり、その長州の精鋭たちが日本をリードする世となって、井上外務卿が「不平等条約の改正のためには日本が物心ともに欧化する要がある」と考えた原点が若き日の英国での見聞にあったことは容易に想像される。まずは上流階級の風俗・習慣が欧化されなければならない。英語を話し外交官など外国の賓客(ひんきゃく)とダンスなどに興じるのだ。その場所として立派な洋館が必要だった。

明治16年(1883)、鹿鳴館(ろくめいかん)が日比谷に完成した。赤い絨毯(じゅうたん)。きらめくシャンデリア。西洋音楽。紳士淑女の華やかな衣装。交錯するカクテルグラス。甘美な社交ダンス。井上が頭に描いたものが現実となった。設計は工部大学校造家(ぞうか)学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教官として招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」ジョサイア・コンドルだった。

コンドルはロンドン大学で学び、ゴシック建築の権威であるパージェスの設計事務所で腕を磨いた。1876年、王立建築学会の若手登竜門ともいうべきソーン賞設計コンペで優勝、その翌年日本政府の招聘を受け24歳で来日した。明治10年だった。来日するや彼は教鞭(きょうべん)をとるかたわら数多くの洋館の設計に着手、学生は教室での勉強だけでなく実際の西洋建築の設計・施工に携わることが出来た。築地訓盲院(くんもういん)、工部大学校の南門と門衛室、開拓使物産販売捌所(さばきどころ)本館…。コンドルはただ単に西洋建築を設計するのではなく、その土地の文化も採り入れた洋館の設計に努め、アラベスクなど東洋的なイメージも積極的に採り入れていった。

あだ花・鹿鳴館

鹿鳴館はルネッサンス風の2階建て。インドなど英国の植民地に多いバルコニー付きの建物で、良く手入れされた庭とセットになっていた。そこでは夜な夜な盛大なパーティーが繰り広げられ、のちに『鹿鳴館時代』という言葉を生んだほど一世を風靡(ふうび)した。しかし条約改正交渉はうまくいかず、やがて井上馨が失脚すると、鹿鳴館は一気にその役割を失った。わずか3年余の日本外交のあだ花だった。鹿鳴館は23年に宮内省に移管され、のち華族会館になり、やがて保険会社に売却され、昭和15年に解体された。

鹿鳴館はあだ花だったかも知れないが、日本の近代建築に残したコンドルの足跡は不滅である。明治16年に教え子の辰野金吾(たつのきんご)が4年間の英国留学から帰ると、コンドルは工部大学校教授の座を譲り工部省に移った。21年に退官して設計事務所を開設、岩崎家の邸宅のほか、数多くの「明治の洋館」を設計した。三菱の顧問にもなり、丸の内ニュータウンの建設も手掛けた。

しかしコンドルの真価が発揮されたのは工部大学校での教育・人材育成であろう。日本銀行本館や東京駅などを設計した辰野金吾、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊(かたやまとうくま)、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣(せんしょうかく)」を手掛けた曾禰達蔵(そねたつぞう)など、そうそうたる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献した。

東大の工学部の中庭には、大正12年に建てられたコンドルの銅像がある。その長身の銅像の存在を知る学生は多いが、どんな人だったか関心を持つ者は少ない。嗚呼(ああ)。


丸の内一号館立面図と熟年のコンドル
丸の内一号館立面図と熟年のコンドル

工部(こうぶ)大学校(現東京大学工学部)の建築の教官として明治10年(1877)に英国から来日したコンドルは、日が経つにつれ日本文化に傾倒していった。日本画は河鍋暁斎(かわなべきょうさい)に師事し「暁英(きょうえい)」の雅号(がごう)で多くの作品を残した。日本文化の紹介本も多く、暁斎の歿後(ぼつご)出版された"Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai"は、暁斎を西洋人の間で広重(ひろしげ)・北斎(ほくさい)並みの有名人にした。

建築家コンドルには、初期では上野博物館、鹿鳴館(ろくめいかん)などの代表作があり、独立してからは、ニコライ堂、横浜山手教会、三井家倶楽部、島津忠重(しまづただしげ)邸(現清泉女子大学)、古河虎之助(ふるかわとらのすけ)邸(現古河庭園)などがあるが、明治22年の岩崎家深川別邸(大正12年[1923]の関東大震災で焼失=現清澄(きよすみ)庭園)から43年の岩崎家霊廟(れいびょう)にいたるまで、岩崎家ないし三菱関係のものが多い。

23年にはコンドルは三菱の顧問になり、丸の内の原っぱにロンドンのような近代的ビジネス街を建設することになった。丸の内建設事務所の主任技師には工部大学校時代の教え子曾禰達蔵(そねたつぞう)が招かれた。

丸の内の赤煉瓦街

コンドルと曾禰は、三菱の管事※1である荘田平五郎(しょうだへいごろう)と丸の内オフィス街の基本構想について議論し「20間(約36 メートル)の道路に合わせ、建物は軒の高さ50尺(約15メートル)の三階建て赤煉瓦造(あかれんがづく)りとし、その上に急勾配(きゅうこうばい)のスレート葺(ふ)き屋根を付ける」ことにした。入口ごとに独立したユニットになっている棟割長屋(むねわりながや)方式である。三菱第一号館は明治27年に竣工(しゅんこう)した。以後、二号館、三号館と続き、やがて一丁倫敦(いっちょうロンドン)と呼ばれるロンドン風のオフィス街が形成されていった。高度経済成長期の昭和44年(1969)に三菱商事ビルに建替えられた第一号館は、丸の内再構築第2ステージの目玉として目下復元計画が進行中である

コンドルの手がけた三菱の仕事は、邸宅にも名作が多い。深川別邸のほか、岩崎久彌(ひさや)邸、岩崎彌之助(やのすけ)高輪別邸、同箱根湯本別邸、それに岩崎家霊廟など枚挙(まいきょ)にいとまがない。

岩崎久彌邸は茅町(かやちょう)本邸とも言われ、久彌が留学していた米国の東海岸すなわち『風と共に去りぬ』の舞台のイメージを盛り込んで木造に設計し直した。関東大震災にも東京空襲にも無事だった運の強い洋館だ。戦後は国の所有となり、現在は東京都の「旧岩崎邸庭園」として公開されている。

岩崎彌之助高輪別邸は現在の開東閣※2である。伊藤博文の屋敷があった高輪の高台に洋館の設計・施工監理をした。完成を待ちきれない彌之助は、駿河台(するがだい)から敷地内に移築した日本家屋に移り住んで洋館の完成する日を指折り数えたが、癌の進行は待ってくれなかった。彌之助の無念を知るコンドルは、後に心を込めて玉川の岩崎家の霊廟を設計した。

コンドルの愛妻くめは若き日の日本舞踊の師匠(ししょう)である。コンドルを日本文化にのめり込ませた張本人かもしれない。そのくめが亡くなったわずか11日後に、コンドルは後を追った。脳溢血(のういっけつ)。大正9年だった。ふたりは文京区音羽の護国寺に葬(ほうむ)られている。

  • ※1

    社長に次ぐ役職

  • ※2

    三菱グループのゲストハウス

  • 2009年完成

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年4、5月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。