三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。加藤高明

護憲三派内閣の加藤首相(右)高橋蔵相(中央)犬養逓信相(左)
護憲三派内閣の加藤首相(右)高橋蔵相(中央)犬養逓信相(左)

政治家の評価は難しい。それゆえこのシリーズでは政治家は敬遠してきた。が、どうしても語っておきたい人がふたりいる。加藤高明(かとうたかあき)と幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)だ。ともに外交官から外務大臣に抜擢(ばってき)され、政界に転じてついには首相になった。頂点に立った時期は20年ずれるが、ふたりとも岩崎彌太郎(いわさきやたろう)の娘を妻とした「三菱ゆかりの人」である。幣原は後日に廻し、今回は加藤について述べる。

四季折々の花が香る名古屋の鶴舞(つるま)公園に、野外ステージ「普選(ふせん)記念壇(だん)」がある。正面に『五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)』が掲げられ、なにやら場違いな感じがしないでもないが、じつは護憲三派内閣の首相となった加藤高明が、大正14年(1925)に普通選挙法を成立させたことを記念して建設されたものである。国税を3円以上納付した男性に限定されていた選挙権はこれにより25歳以上の男性すべてに開放され、有権者数は一気に4倍になった。(女性にも参政権が与えられるのは、終戦後の昭和20年〈1945〉になってからである。この時の首相は奇しくも義弟幣原喜重郎だった)。

加藤は万延(まんえん)元年(1860)尾張(おわり)藩の下級武士の家に生まれた。東京大学法学部を卒業すると郵便汽船三菱会社に入り、明治16年(1883)に英国の海運業を学ぶためロンドンに留学した。明治18年に帰国して三菱に復帰、神戸支社副支配人となり、のちの合併で日本郵船へ。翌年、岩崎彌太郎の長女春路(はるじ)と結婚した。英国留学で垣間見た国際舞台を忘れられず、ロンドンで知遇(ちぐう)を得た陸奥宗光(むつむねみつ)に働きかけて推薦を得、明治20年に外務省に入った。

加藤は持ち前の明晰な頭脳と剛直な性格に加え、運にも恵まれた。間もなく、義父岩崎彌太郎に理解のあった大隈重信(おおくましげのぶ)が、黒田清隆(くろだきよたか)内閣で外務大臣になった。加藤は大隈の秘書官として登用され希望通り国際舞台に踊り出ることができた。外交官としてのその後は順風満帆(じゅんぷうまんぱん)で、やがて駐英公使となり日清戦争後の日英関係の好関係樹立に尽力、明治33年には第4次伊藤博文内閣で外務大臣になった。このとき、40歳。

護憲三派内閣の首相に

かくして政界に足を踏み入れることになり、かたわら東京日日新聞※1の社長も務めた。41年の桂太郎(かつらたろう)内閣のとき加藤は駐英大使に転出したが、時代の節目節目で外相を務め、第一次世界大戦後は「対華(たいか)21か条の要求」など強気の外交政策を主導した。大正5年には憲政会総裁になり、大正13年5月の総選挙では、高橋是清(たかはしこれきよ)の政友会、犬養毅(いぬかいつよし)の革新倶楽部(くらぶ)とともに第二次憲政擁護運動を展開、三政党で過半数を獲得した。第一党となった憲政会の加藤が首相になり、「護憲三派内閣」を組織した。

「護憲三派内閣」は、まずは貴族院の力をそぐ政治改革を断行、次に、懸案の『普通選挙法』を成立させ財産による選挙権の制限を撤廃し歴史に名を残した。一方では無政府主義や共産主義勢力の台頭を抑えるため『治安維持法』も成立させている。

大正14年に成立した第二次加藤内閣は憲政会の単独内閣だったが、やんぬるかな、加藤は体調を崩して首相の座を若槻礼次郎(わかつきれいじろう)に譲らざるを得なかった。二日後に肺炎で急逝(きゅうせい)。毀誉褒貶(きよほうへん)いろいろある政治家だったが、明治から大正にかけて、激動の時代の日本を動かした、存在感のある政治家だったことには異論がない。

  • ※1

    現毎日新聞

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。