三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。岩崎俊彌

英国から帰国して間もない頃の俊彌(左)と兄小彌太(中央)、弟輝彌
英国から帰国して間もない頃の俊彌(左)と兄小彌太(中央)、弟輝彌

旭硝子(現・AGC)を創業した岩崎俊彌は彌之助の次男。母の早苗は後藤象二郎の長女である。兄の小彌太とは2歳違い。明治14年(1881)に生まれた。長子相続の時代。どこの家でも長男と次男以下とでは待遇に雲泥の差があったが、岩崎家ではこと教育に関しては機会を均等に与えた。俊彌は小彌太の後を追って学習院に入り、のち東京高等師範学校付属小学校※1に転じ中学校に進んだ。

駿河台の彌之助邸には実業家、政治家、芸術家、その他もろもろ大勢の人が出入りしていたので、父はふたりのために学寮を設けた。人格・学業ともに秀でた書生の下で規則正しく生活し、週末以外帰宅は許されない。質素剛健、清貧を旨とする。岩崎本家の学寮が雛鳳館(すうほうかん)といったので、こちら分家は潜龍窟(せんりゅうくつ)と称した。

29年に父彌之助が日銀総裁になると、俊彌は小彌太とともに、留学帰りの若手行員の米国人妻について、英会話と欧米流のマナーを学んだ。そして第一高等学校に進んだ後、33年に中退してロンドン大学に留学、応用化学を専攻した。ケンブリッジ大学では小彌太が歴史や政治学を学んでいた。

ロンドンでは、大いに学び、語り、飲み、そして騒いだ。まさに青春の日々。ヴィクトリア女王からエドワード七世に引き継がれたころの英国は、世界最強、あこがれの国だった。35年には日英同盟が締結され、日本の英国礼賛ムードはピークに達した。

帰国すると俊彌は近衛騎兵連隊に入った。少年時代から馬に乗るのを得意としていたのだ。日露戦争が始まり、多大な犠牲の末に203高地を奪い、国民の士気は高まった。俊彌は訓練や演習を重ねていたが、旅順開城(りょじゅんかいじょう)、奉天陥落(ほうてんかんらく)、日本海海戦となり、幸か不幸か出兵を体験しないまま戦争は終わった。

板ガラスこそ生涯の事業

日露戦争の勝利により起業熱は高まり、さまざまな産業が勃興した。除隊した俊彌は、日本の近代化の中で大きな需要が期待される板ガラスの製造に取り組むことを決意した。多くの先人が試みながらいずれも志半ばで挫折した板ガラス製造は、技術の蓄積がまだまだ足りない分野で、輸入品に歯が立たなかったのだ。

39年、俊彌はガラス器具を製造している島田孫市(まごいち)と、大阪島田硝子製造合資会社を設立した。ガラス王国ベルギーの技術を導入して製造する。俊彌の板ガラス人生の第一歩だった。

彌太郎、彌之助の岩崎両家は、それぞれ長男は後継者として三菱に入るが、次男以下は独立した。小彌太は三菱合資会社の副社長として、従兄久彌の下で帝王学を学び始めようとしていた。

次男俊彌の起業を彌之助は大いに喜んだ。わざわざ大阪の工場を見に行ったりしている。しかし、現実は厳しい。俊彌がロンドン大学で勉強したというだけでは通用しない。製品の板ガラスは高くて売れない。質が悪くて買う人がいない。在庫が増える。島田とも意見が合わなくなる。事業の道筋は全く立たない…。

俊彌はあきらめなかった。「困難は覚悟の上のこと。生涯をかけてでも国産化は成功させる」と、父彌之助※2にあらためて決意を語る。俊彌は島田と袂を分かってベルギーの技術で再挑戦する案を練った。明治40年、尼崎に旭硝子株式会社を創立。出資額は俊彌と弟の輝彌で過半数を占めた。三菱合資会社の事業ではなく、岩崎家(分家)の事業という位置付けだったからである。板ガラス専門の大規模工場の建設が開始された。


岩崎俊彌と実生の蘭ファレノプシス種
岩崎俊彌と実生の蘭ファレノプシス種

前回はいわばAGC前史。板ガラス事業をライフワークと決意した岩崎俊彌は、新たに旭硝子株式会社(現・AGC株式会社)を設立、尼崎に2万坪の土地を得て、ベルギーの手吹円筒法※3を採用した大規模な工場建設に取りかかった。明治42年(1909)完成。翌年、製品が市場に出た。が、質・価格ともに輸入品に勝てない。

俊彌はあくまでもエンジニア。技術改良に意を注ぐ。一方で新技術の情報にアンテナを張っていた。そこでピンときたのが米国の機械吹法。「これだ!」と自ら米国に赴き、技術導入にあたった。大正3年(1914)、北九州の戸畑に最新鋭の牧山工場が完成する。累積赤字なんかで萎縮しない、堂々の設備だった。今度こそ大丈夫。

折りから第一次世界大戦が勃発した。欧州からの板ガラスの輸入がストップした。国内市況は高騰し、板ガラス生産はまたたくまに累積赤字を吹き飛ばす優良事業になった。大消費地東京に近い鶴見では新しい工場の建設が始まった。

創業から7年余。旭硝子にとっては無配の苦しい道程だったが、ついに果実は実り、経営基盤が確立された。それは俊彌の不屈の精神と卓抜した先見性のたまもの以外の何物でもなかった。

さらに、大正5年、尼崎に耐火煉瓦工場を建設、6年には本社を東京に移転した。牧山にも第二工場を建設し、アンモニア・ソーダ法によるソーダ灰工場も竣工、板ガラスの原材料の自給体制を確立した。

その後もダイナミックな技術革新は続き、旭硝子は破竹の勢いで成長していった。そして14年には南満州の大連に、満鉄と共同出資で昌光硝子(しょうこうがらす)株式会社を設立し、大陸進出を果たした。

家族を愛し蘭を好んで

俊彌自身は心臓に持病があり、突然息苦しくなるときがあったが、日ごろはそんなことは、おくびにも出さず、社長としての業務をこなし、工場を視察し、朝鮮や満州へ出かけることもあった。3人の娘※4に恵まれ、家族を大切にし、蘭の栽培に心をくだいた。

昭和5年(1930)の秋、いつものように長女の八重子に「父が弱いがゆえにお前たちは人一倍母に面倒をかけた。母を大事に大事にするんだよ」と言って、福井の曹洞宗発心寺(ほっしんじ)での座禅の会に出かけた。三日目に体調を崩したが、1週間の参禅をまっとうし、俊彌は清々しい気持ちで京都へ戻ってきた。その翌日、高台寺のそばの別荘で突然倒れ、帰らぬ人となってしまった。50年の生涯だった。

俊彌が創業し、俊彌が24年余り率いた旭硝子だったが、事業の継統に憂いはなかった。尼崎工場の建設段階から工務長として参画し、俊彌とずっと苦楽を共にしてきた山田三次郎が後を継いで、軌道に乗った旭硝子の事業をさらに発展させていった。

今日、毎年2月下旬になると、東京ドームが蘭で埋め尽くされる。「世界らん展」。その会場の片隅に俊彌のコレクション『1800年代の蘭の古図譜』が展示される。英国留学中に蘭に魅せられて買い集めた貴重本だ。帰国後、俊彌は蘭の交配や育種に熱中した。物の本に「…男爵岩崎俊彌氏邸の蘭栽培で殊に有名なのは…ファレノプシスアサヒなどの新種だ。和名が学名になっている…」とある。俊彌の歿後、北海道大学の植物園に約500種、2万7千株におよぶ蘭が寄付された。

  • ※1

    現・筑波大学

  • ※2

    明治41年3月、上顎骨癌腫にて死去

  • ※3

    鉄管の吹棹(ふきざお)に灼熱したガラス素地を巻き付け直径30cmの円筒に仕上げる。

  • ※4

    次女淑子は昭和10年子どものいない伯父小彌太の養女になった

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年8、9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。