三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。諸橋轍次

旧下田村の生家と晩年の諸橋
旧下田村の生家と晩年の諸橋

越後山脈に源を発し、やがては信濃川に流れ込む五十嵐(いからし)川は、断崖の景勝「八木ケ鼻」の下を激して流れて行く。そこは「漢学の里」旧下田(しただ)村(現在は三条市)。諸橋轍次(てつじ)博士の故郷である。

旧下田村は、越後から会津へ抜ける街道筋だった。木立の中に杉皮葺き屋根の小さな二階建てがある。諸橋は明治16年(1883)にその家に生まれ14歳まで育った。学者になってからは、夏休みごとに三男の晋六(しんろく)※1ら家族を伴って帰省し、松籟(しょうらい)の中で読書に耽った。現在は隣接地に「諸橋轍次記念館」が建設され、遺品や遺墨に人柄や偉業を偲ぶことができ、訪れる人も多い。

諸橋は東京高等師範を卒業すると、漢学の教授として母校に奉職した。その間中華民国になった大陸各地を旅行し、清朝以来の漢学者が途絶える可能性があることを察知すると、急ぎ留学することを決意した。大正8年(1919)から2年間中国に留学し、各地で碩学(せきがく)に学んだ。岩崎小彌太の援助を受けるに至ったのもこの時からである。中国では、原典による完全な解釈を施した完成度の高い辞典の必要性を嫌というほど痛感したが、後年自ら大漢和辞典の編纂(へんさん)に取り組むことになるとは思いもしなかった。

皇太子へのご進講

帰国して間もなく、高等師範で漢文の指導にあたるかたわら、岩崎小彌太に嘱望され静嘉堂の文庫長になった。静嘉堂は岩崎家の私設文庫で当時は高輪※2の本邸にあった。文庫は清国の四大蔵書家のひとりである陸心源の蔵書を中心に、和漢の蔵書を幅広く収集していた。諸橋は、図書の調査、目録の作成、典籍の購入など文庫長としての任にあたった。

静嘉堂文庫は諸橋の研究の場であり、大正12年に関東大震災で書架が倒れ蔵書が散乱したときは、大いに困惑した。

翌13年、岩崎家の廟のある二子玉川の丘の上に、新しい文庫が建設されて移転した。そこには、多忙な三菱の総帥・岩崎小彌太社長が必ずと言っていいほど週末には足を運び、諸橋から中国の古典講義を受けた。後年、三菱の三綱領の撰を依頼されたのもその間のことだった。

昭和2年(1927)、大修館書店の要請に応じて、諸橋は漢和辞典の編纂に取りかかった。また、4年には、高等師範の敷地内に東京文理科大学※3が創設され、諸橋が漢文科の編成にあたった。

漢和辞典は高い完成度を追求して構想がどんどん膨らんだ。膨大な作業は戦時体制で中断されることもなく粛々と進められた。

終戦直後、宮内庁から諸橋に遣いが来た。皇太子(現在の上皇陛下)への漢学の進講を委嘱される。ご進講は殿下の学習院卒業まで続いた。35年の皇孫浩宮(ひろのみや)さま(現在の天皇陛下)誕生の際は「御名号(ごみょうごう)・御称号(ごしょうごう)」の勘申(かんじん)※4を依頼された。40年の礼宮(あやのみや)さま、44年の紀宮(のりのみや)さまについても同様であった。

諸橋は40年に文化勲章、51年に勲一等瑞宝章を受けた。そして、57年に99歳で歿した。座右の銘は、論語にある「行不由径」(行くに径《こみち》に由《よ》らず)。径は小道すなわち近道のことで、近道せずに大道を一歩一歩着実に歩むという意味である。

30年を超す膨大な作業を経て昭和35年に完成された大漢和辞典の編纂は、まさしく「行不由径」の日々であった。


大漢和辞典の原稿に手を入れる諸橋
大漢和辞典の原稿に手を入れる諸橋

今回は世紀の大事業、大漢和辞典の編纂について述べよう。

諸橋轍次博士は言う、「※5漢字・漢語の研究なくして東洋文化の研究はありえない…。中国に『康熙(こうき)字典』『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』などの大辞典があるにはあるが、語彙が少なかったり解釈が不十分だったり…」。中国留学中、各地に碩学(せきがく)※6を訪ねて学んだ諸橋は、内容の充実した大辞典の必要性を痛感していた。帰国して静嘉堂の文庫長になったが、昭和2年(1927)、大修館書店の鈴木一平社長に懇請され、漢和辞典の編纂事業に着手した。

初めは主として、諸橋が教鞭を執っていた大東文化学院(現大東文化大学)の学生たちが力となり、分担して膨大な典籍から漢字と熟語を集めカードに整理していった。遅れて、生涯の友であった近藤正治のほか、東京文理科大学出身の小林信明、渡辺末吾、鎌田正、米山寅太郎※7らが事業に参加した。最終的に集めた漢字は5万、典拠を明示し用例を掲げた語彙は50万に及んだ。

カード整理の次は辞典の原稿の執筆。それに諸橋が手を入れる。印刷所も手持ちの8千字程度の鉛活字を5万字以上6種類の大きさを揃える作業に着手。活字は文選工と呼ばれる熟練工がひとつひとつ拾って版に組む。試し刷り。ゲラに朱が入って版の組み直し。また試し刷り。そしてまた校正。際限のない作業である。

世紀の事業・大漢和辞典編纂成る

何回夏が来て、何回冬が来たことか。ついに1万5千ページ分の版ができあがる。この間、日本を取り巻く情勢は緊迫の度を増し、物資は不足、食糧の確保も困難を伴った。そんな中で、昭和18年、第1巻が出版された。紙は軍部統制品で、出版元である大修館の苦労も並大抵のことではなかった。

ところが、20年2月、東京大空襲。版とすべての資料が灰となった。関係者の落胆いかばかりだったか。しかも、酷使し続けた諸橋の右目は失明、左目もやっと明暗が分かる程度であった。

8月、終戦。国の再建が始まった。諸橋たちもよみがえる。幸いゲラ刷りが3部残っていた。焼けた鉛活字は戻らないが、写真植字を発明した石井茂吉が5万字をペンや筆で描く作業を引き受けた。諸橋たちは寝食を忘れて最後の仕上げに没頭した。

企画がスタートして32年余、大漢和辞典はついに全13巻が出揃う。昭和35年、まさに世界的偉業だった。

それは多くの人に支えられて達成できたものだったが、諸橋の心を支えたのは故郷下田村※8への愛かもしれない。後に文化勲章など数々の栄誉に輝いた諸橋だが、三男の晋六※9はこう回想する。「おやじは本当に故郷を愛していた。最も嬉しかったのは、名誉村民に選ばれたことだったんじゃないかな…村の小学校の校歌を作詞した時は心底嬉しそうだった…」。

諸橋は大漢和辞典完成直後から「オックスフォード辞典も…百年の歳月を要して後人が補修している…」と、後継者による修訂を願っていた。存命中に鎌田や米山がその委嘱を受けたが、原典にあたって確認する作業が膨大で、修訂版が刊行されたのは諸橋が昭和57年に99歳で没して後の、61年だった。平成2年には語彙索引として第14巻、12年に補巻として第15巻が出された。

大漢和辞典は不滅である。

  • ※1

    のちに三菱商事社長、静嘉堂文庫理事長。

  • ※2

    現在の開東閣

  • ※3

    のち東京教育大学、現筑波大学。

  • ※4

    先例や故事来歴を調べて上申すること

  • ※5

    「大漢和辞典」の『序』などから引用した言葉

  • ※6

    大学者のこと

  • ※7

    鎌田は東京教育大学名誉教授。米山はのちに静嘉堂文庫長

  • ※8

    現三条市

  • ※9

    元三菱商事社長、静嘉堂文庫理事長

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年11、12月号掲載。