
三菱人物伝
青あるいは朱、白あるいは玄。山本喜誉司

山本喜誉司(きよし)、ほとんどの読者はご存じないだろう。が、ぜひ書きとめておきたい。戦後混乱期のブラジル日系人社会(日系コロニア)をまとめた山本、ブラジルで知らない人はいない。
東京帝国大学の農学部を卒業した山本が、三菱に入って岩崎久彌社長から与えられた任務は、海外での農場経営だった。最初は中国での綿花事業に携わり、やがてブラジルに派遣される。大正15年(1926)だった。山本は入念な調査の末、コーヒー栽培の地としてサンパウロ郊外のカンピナスの丘陵を選んだ。「東山(とうざん)※1農場」のスタート。3700ヘクタール(ざっと6km×6km)である。
翌年、三菱の資力をバックに合資会社「カーザ東山」が設立され、やがて総支配人として君塚慎が着任した。カーザ東山はコーヒーの取り扱いを開始。これにより日系の生産者は悪徳業者の圧倒的に不利な条件から解放された。担当の山本は融資や買付のために広いブラジルを駆け回った。絹織物、酒造、肥料、工作機械、鉄工、柑橘加工などにも事業を拡げ、さらには銀行まで設立して、カーザ東山は日本人移民の生活を支えた。1940年に君塚が三菱本社の常務として帰国すると、総支配人には山本が昇格した。
山本は久彌社長の「ブラジルの土になるつもりで…」という言葉をしっかり受けとめ、戦時中の差別と不自由にも耐えた。戦後日系コロニアは戦勝を信ずる勝ち組と敗戦を認める負け組がいがみ合い殺人事件にまで発展する状態に陥ったが、山本は双方に冷静になることを必死に呼びかけ、かたわら日系人の権利回復に奔走した。
日系人社会のまとめ役
1953年(昭和28)、山本は日本の衆議院の外務委員会に参考人として呼ばれ、ブラジルの凍結資産解除の現状について述べた。
「…上院と下院の間を駈け回って…ついに日本人の資産凍結を解除してもらうところまで来ました。…不在地主の場合もあとは手続の問題で…目下君塚大使に外交交渉をお願いしております…政府レベルでもう一押しというところまで来ております…※2」
翌54年はサンパウロ市建設400年祭。山本の強いリーダーシップで日系コロニアが日本館を建設してサンパウロ市に寄贈することになるが、この過程の度重なるコミュニケーションにより勝ち組・負け組の憎悪や怨念がようやく収斂(しゅうれん)する方向に向かっていった。山本の人柄と実行力に負うところが大きかった。
山本発言の中の君塚大使とは、かつてカーザ東山の総支配人だった君塚慎のことである。1952年、戦後初の駐ブラジル大使として民間から起用された。「日系コロニア※3をまとめるには君塚氏の人柄と見識が必要」という山本の直訴に、時の首相吉田茂が心を動かされて決めた。三菱のDNAを持つ山本・君塚のふたりの阿吽(あうん)の呼吸が、日系コロニアを正常化させ、日本・ブラジル両国の安定した関係を再構築し今日に至る流れを作ったと言える。
山本はもともと学究肌で、コーヒーの害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で東京大学から農学博士号を得ている。1963年、71歳のとき肺がんで帰らぬ人となったが、がん告知にも動ぜず最後までにこにことして日系コロニアのために労を惜しまなかった。「今日の日系人社会があるのは山本さんのおかげ」と、今でも多くの人に敬愛されている。三菱が誇るべき国際人のひとりである。
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※1
「東山」は岩崎彌太郎の号
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※2
第15回国会外務委員会議事録による
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※3
サンパウロ人文科学研究所編『山本喜誉司評伝』(1981)による
文・三菱史料館 成田 誠一
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2006年1月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。