三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。澤田美喜

エリザベス・サンダース・ホーム定礎式の澤田美喜
エリザベス・サンダース・ホーム定礎式の澤田美喜

澤田美喜は明治34年(1901)、三菱合資会社社長岩崎久彌の長女、創業者岩崎彌太郎の孫として茅町本邸※1で生まれた。男の子が3人続いての4番目の子。美喜の竹を割ったような性格を大いに気に入った祖母は、兄たちのお古を着せ、取っ組み合いを良しとし、折にふれ祖父彌太郎のスジを通す性分を語って聞かせた。美喜はお茶の水の東京女子高等師範学校※2の幼稚園に入り高等女学校に進んだが、中退して津田梅子らに英語を学んだ。

20歳で外交官澤田廉三※3と結婚、クリスチャンになる。外交官夫人として、アルゼンチン、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークと移り住む中で、持ち前の英語力と物怖じしない性格とから現地の社交界に迎えられ、国際感覚を磨き、幅の広い人脈を築いていった。

ロンドンでは毎週教会に通ったが、ある日、誘われて郊外にある孤児院「ドクター・バーナードス・ホーム」を訪ねる。こざっぱりした宿舎。きれいな礼拝堂。緑に囲まれた広い敷地には、小学校から中学・高校まであり、職業訓練施設もある。ボランティアの人たちが生き生きとして働いている。そして何より子どもたちが明るい。美喜は感動し、それから毎週末、バーナード博士のもとで孤児たちのために汗を流して心に潤いを得たのだった。

パリではマリー・ローランサン※4に絵の指導を受けたり、琥珀色の歌姫といわれたジョセフィン・ベーカー※5と親友になるなど、華やかな社交界の生活を満喫した。昭和11年(1936)にニューヨークから帰国。翌年、盧溝橋事件が勃発した。日本は急速に戦争に傾斜していった。

この子らの母になる

第二次大戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら。多くが父も知らず、母からも見捨てられていく。

ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。

「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる…」

夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に支えられ、美喜は諦めなかった。

執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。GHQの指示ですでに資産を凍結された父久彌は、「世が世だったら、大磯の別荘くらい寄付してやれたのに…」と嘆いた。

昭和22年、美喜はついに別荘を買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もあるエリザベス・サンダース・ホーム※6をスタートさせた。美喜、46歳だった。


澤田美喜と「わが子」たち
澤田美喜と「わが子」たち

戦後まもない日本だった。焼け跡、闇市、失業、貧困、浮浪児、街娼…。みんな、自分のことだけで精一杯だった。黒い子、白い子、祝福されずに生を受けた混血の子どもたちが、母に連れられて、駅に捨てられて、あるいは門前に置き去りにされて、大磯のエリザベス・サンダース・ホームに引き取られた。澤田美喜はもちろん保母たちも寝る時間を削っての懸命の毎日だった。

パリ時代からの親友ジョセフィン・ベーカーが、美喜がエリザベス・サンダース・ホームを作ったことを知ると、すっ飛んで来て、日本各地で公演し、資金確保に協力してくれた。その上、ホームの孤児ふたりを自らの養子として引き取ってくれた。

だが、世間は冷たく無神経だった。混血孤児たちが町に出ると露骨な好奇の目に曝された。「△△△△だぁ」「××××の子よ、やあねぇ」と差別語が飛び交い、思わず美喜が「この子たちに何の罪があるというの!」と、金切り声をあげることもあった。

昭和33年(1958)には創立10年記念の写真集『歴史のおとし子』が出版された。新聞や雑誌でも紹介され、敗戦のショックから立ち直りつつあった人々の感動を呼んだ。その本に、多くの混血孤児を養子として育てているパール・バック※7が序文を寄せた。彼女はここまで漕ぎつけた美喜の事業をたたえながらも、「幼い孤児たちを幸福にしてやるのはそれほど難しいことではない」とクールに述べた上で、「子どもたちが大人になった時、澤田夫人は同胞の男女の助けを必要とするだろう」とさらなる試練を予言した。

差別に耐える免疫

そう、混血孤児たちの試練はこれからが本番だった。ホームは敷地内にステパノ小中学校があり、いわば保護区だったが、最大の難関は子どもたちの社会への適合だった。美喜は、無条件の優しさは保母たちにまかせ、厳格な「ママちゃま」として振る舞った。厳しい躾(しつけ)を通じて社会の偏見と差別に耐えられるだけの免疫を作る。特に黒い肌の子には、愛しい「わが子」なるがゆえの愛の鞭。実際、それに耐え、強くなった者だけが、その後正々堂々の人生を切り開いたのだった。その一方で、残念ながら、美喜が警察に卒業生の身柄を貰い受けに行ったことは数えきれない。

エリザベス・サンダース・ホームは2000人に近い混血孤児を育て、半数近くを日本より偏見の少ない米国に養子として送り出した。さらに、より偏見の少ないブラジルのアマゾンに土地を買い、小岩井農場や三菱重工で技術を身につけさせた上で子どもたちを送り出したが、この方は16年の悪戦苦闘の末に挫折した。

美喜の、子どもたちの母としての愛情と厳しさは晩年になっても変わらなかった。子どもたちには身を挺して接し、子を置いていった母からの手紙に返事を書き、あるいは挫折しそうな卒業生の相談相手になった。それが一段落すると、わが身に鞭を打って講演の旅に出、世界に散らばった「わが子」たちを訪ねた。

昭和55年、美喜は妹の福澤綾子※8とスペインへの講演旅行に赴いたが、地中海のマジョルカ島で体調を崩して入院し、心臓麻痺により78歳でこの世を去った。特に「わが子」たちにはつらい知らせだったが、国際人美喜らしい終焉でもあった。人生を燃焼し尽くした「三菱の人ゆかりの人」だった。(完)

  • ※1

    現在は「都立旧岩崎邸庭園」。台東区池之端

  • ※2

    現お茶の水女子大学

  • ※3

    戦後、外務次官、国連大使

  • ※4

    フランスの女流画家

  • ※5

    アフリカ系ミュージカル・スター。12人の混血孤児を育てた

  • ※6

    英国人女性が遺した170ドルが建設基金第一号になったので、その名に因んだ

  • ※7

    中国に生まれ、『大地』などの小説を執筆。ノーベル文学賞受賞。多数の混血孤児を育てた

  • ※8

    福澤諭吉の孫堅次の妻

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2006年2、3月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。