三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.05 新時代への足踏み

新時代への足踏み

安政5(1858)年、井伊直弼(いいなおすけ)が勅許を待たずに日米修好条約に調印した年。土佐藩では吉田東洋が要職に復帰、藩政改革に取り組んだ。東洋は階級制度を改革して人材登用の道を開き、開国を想定して海運、貿易、殖産興業の施策を推し進めた。同6年、彌太郎は突然長崎出張を命じられた。海外事情、特に列強の清(シン)に対する侵略行為の実態を把握するためである。

上司について長崎入りした彌太郎が目を見張ったのが湾に浮かぶ蒸気船。あちこちに建てられつつある異人館。煉瓦造りの製鉄所(のちの三菱重工長崎造船所)。往来するイギリス人やオランダ人。漢学に秀でた彌太郎だが、異人言葉はさっぱり分からぬ。どうやって情報を引き出したらいいものやら…。

ええい、男は度胸だ。通訳を介してまずは人脈づくり。長崎、丸山花街。おそるおそる異人を料亭に招く。乾杯、乾杯、また乾杯。土佐流のドンチャン騒ぎに異人も大喜び。要はこころだよ、こころ。田舎侍はどんどんはまり、大言壮語し公私混同。夜な夜な思案橋で迷って丸山の坂を上り、千鳥足で下りてきてはまた上る。もう、お決まりのコース。世情には詳しくなったが、吉田東洋の期待する列強の動向や海外事情の調査にはほど遠い。

時は万延(まんえん)元年、江戸では雪の桜田門外で井伊直弼が水戸浪士たちに惨殺された。時局は切迫している。なのに彌太郎、公金使い込みに等しい散財。もはや軍資金は底をついた。あわてて、土佐へ戻り、金策に走り回った。どうにか私用と目される分だけは返済するが、無断帰国だったことを断罪され罷免。傷心の思いで井ノ口村に帰る。

半年足らずの長崎生活で彌太郎は学んだ。世界は広い。知らないことだらけだ。しかし、官職を失った今はどうしようもない。彌太郎は井ノ口村で読書と野良仕事三昧。捲土重来(けんどちょうらい)、時いたるを待つしかない。

結婚、長男の誕生

やがて、彌太郎は高知城下の姉夫婦の家に居候、借財をして郷士(ごうし)株を買い戻した。彌太郎、27歳。縁あって貧乏郷士の娘・喜勢と結婚した。

喜勢

岩崎喜勢(1845-1923)

高芝玄馬の次女。

土佐藩は進歩派、保守派それに下士層の勤皇派が激しく争っていた。開国か攘夷(じょうい)か。改革か現状維持か。その真っ只中で、吉田東洋が武市半平太(たけちはんぺいた)らの勤皇党によって暗殺される。土佐藩は保守派が実権を握り、東洋一派と目される者が藩政中枢から駆逐された。

しばらくは悶々としていた彌太郎だが、ある日、藩主の江戸参勤に同行せよとのお達しがある。分からないものである。彌太郎は思った。「あしもまだまだ、ふてたもんぢゃないぜよ」

ところがなんと途中兵庫で、隊列を離れたとの理由で帰国を命じられてしまう。弁明も聞き入れられず、彌太郎の立場はまたまた暗転。東洋門下生たちの復讐を恐れた武市一派の讒言(ざんげん)によるものだった。彌太郎にとってまことに不本意な帰国だったが、同じ東洋門下で同行を続けた井上佐市郎や広田章次は、大坂に着いたところで惨殺されてしまうのだから、人生何が幸いするか分からない。まだまだ、時われに利あらず。彌太郎は高知を引き払い井ノ口村に帰った。小作まかせだった農事に精を出し、安芸川に添った低地に新田を開発する。釣と読書で、はやる心を静める。

慶応元(1865)年、かねて申請中の官有林払下げ許可が下りた。長男の久彌が生れた。おまけに、郡の下役に登用されることになった。時は来た。時代は動き出した。東洋の甥・後藤象二郎が藩の要職に返り咲いた。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。