三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.14 福沢諭吉と彌太郎

福沢諭吉と彌太郎
若き日の福沢諭吉と彌太郎が
店頭に飾ったおかめの面

大阪にある中津藩の蔵屋敷で福沢諭吉が生まれたのは天保5年。土佐の田舎で彌太郎が生まれた翌日だった。福沢は蘭学を緒方洪庵(こうあん)に学び、ついで英語を勉強した。幕府の欧米使節に随行すること三度、著述活動を通じて西洋の制度・理念の紹介に努めた。

慶応3(1867)年の10月、長崎商会の主任だった彌太郎は長崎から船で京都に向かった。21日の日記に記している。

「晴、早朝下関を発つ。…壇ノ浦では歴史に思いを馳せる。船室に入って、西洋事情二冊を読了する。…夜、広島の御手洗港に着く。…風雨激しくなる」。福沢の著書『西洋事情』は当時のベストセラー。彌太郎、33歳。福沢への一方的出会いだった。

福沢は慶応4年、三田に慶応義塾を開設し教鞭をとる。その翌々年、彌太郎は大阪で海運業を立ち上げた。明治6年には三菱を名乗り、翌7年東京に進出した。

東京に進出

当時の最大手は日本国郵便汽船会社。態度大きくいかにも乗せてやるという風情。これに対し、新興の三菱は、店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対する。武士の意識が抜けず笑顔の出来ない者には、彌太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し「お客を小判と思え」と指導したという。これを聞き、自ら両社の現場を視察した福沢は、「岩崎は商売の本質を知っている…」と塾生に語ったと言われる。

おかめの面

実物が三菱UFJ銀行の本店に保管されている。

初期三菱には当然のことながら土佐出身者が多かった。石川七財(しちざい)、川田小一郎らに代表される幕末・維新の激動の中を生き抜いた仲間だ。ところがある時期から、土佐とは直接関係のない学識者が増えて行く。彼らは三菱の経営の近代化に大きな役割を果たす。

その背景には実業家岩崎彌太郎と啓蒙思想家福沢諭吉の一目を置き合う関係があった。慶応義塾や東大から多くの人材が採用された。彌太郎は豪語した。

「番頭や手代を学識者にすることは出来ないが、学識者を番頭や手代にすることは出来る」

福沢門下生の活躍

明治8年、彌太郎の頼みに応え福沢が推薦して、荘田平五郎が入社した。翻訳係、すなわち西洋知識の導入担当である。まず、三菱の会社規則が作られた。冒頭で「当商会は…まったく一家の事業にして…会社に関する一切の事…すべて社長の特裁を仰ぐべし」と、社長独裁を明快に謳った。三井や住友と決定的に違うところである。

荘田平五郎

後に三菱の第二代社長岩崎彌之輔に丸の内の土地を買い取るよう進言したのは荘田平五郎だった。その意味では日本屈指のオフィス街、「丸の内」の生みの親ともいえる。

三菱の会社規則

三菱汽船会社規則

会社の利益・損益ともに社長の一身に帰し、利益が大きいときは月給を上げることもあるが、損益が大きいときは月給を減らすこともある、などあくまで社長主体の会社体裁が規定されている。

彌太郎自身は西洋の学問を学んでいない。にもかかわらず早々に複式簿記を採用し、原価償却の概念も取り入れている。福沢門下生の言うことを理解できた柔軟な頭脳は、おそらく長崎以来の外国商人との長い付き合いの中で培われたものであろう。

初期三菱には、荘田のほか、日本郵船の社長になった吉川泰二郎、後に日銀に転じて総裁にまでなった山本達雄、明治生命を創設した阿部泰蔵(たいぞう)ら、錚々たる福沢門下生がそろっていた。福沢は「実業論」の中で、経営者・岩崎彌太郎を、こう評価している。

「岩崎社長は…広く学者社会に壮年輩を求めてこれを採用し、殊に慶応義塾の学生より之に応じたる者最も多かりしが…社員おのおのその技量を逞しくし、良く規律を守りて勉励怠らず、社務整然として…他諸会社に対して特色を呈した…」

彌太郎の長男久彌も、幼少時、明治8年から3年間、卒業したばかりの豊川良平のもとで慶応義塾に通った。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。