三菱人物伝
黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.16 西南戦争
征韓論をめぐる政争の結果、西郷隆盛は、明治6(1873)年、参議を辞し鹿児島に戻った。
西郷たちが各地に組織した私学校は若い不平士族の拠り所になった。鹿児島県は地租改正も秩禄処分(ちつろくしょぶん)(注1)も行わないなど中央政府に反抗、あたかも独立国のようだった。一方、高知では板垣退助らが自由民権運動を展開、反政府活動を活発化させていた。
明治7年以降、佐賀の乱、神風連(じんぷうれん)の乱、秋月の乱、萩の乱と、不平士族の反乱が各地で勃発したが、とどめは西南戦争である。
10年2月、西郷が私学校の生徒1万5千人を率いて鹿児島を発った。めざすは熊本鎮台。九州各地の不平士族も合流し、総勢4万余。政府はただちに有栖川宮を征討総督に任命し、陸軍は山縣有朋中将、海軍は川村純義中将に指揮を執らせることとした。
政府の助成を受けている三菱に対してはただちに社船の徴用が命じられた。兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送が勝敗を決するのだ。
「わが三菱の真価が問われる時が来た。…怯むな…」。彌太郎は幹部社員を集めて檄を飛ばした。「わしは東京で政府との折衝にあたる。石川、お前は大阪で兵站と配船を指揮せよ。川田、お前は長崎で、だ。彌之助は配船の現場に立て…」
政府軍の輸送船団
三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込んだ。全社をあげての取り組みは、総勢7万にのぼる政府軍の円滑な作戦展開を支えた。
(左)「東海丸徴されて西南征討軍用船となる」明治10年2月15日政府へと徴用された東海丸は約2ヶ月にわたり品川、横浜、神戸への軍事輸送に従事した。
(右)「官命あり、上海航船西京丸特に解纜の期を早め兵を載せて西航す」明治10年2月19日
急な命令により、出航を1日早めたり停泊の時間を短縮するなど当時の慌しい様子が記されている。
西郷軍は熊本鎮台を攻めあぐみ田原坂(たばるざか)で敗走、宮崎県の各地を転戦して、ついに鹿児島の城山で最期を迎える。戦死者は双方あわせて1万人以上。まさに内戦だった。
意気盛んだった西郷の軍を、徴兵制軍隊が制圧した。もはや軍事力は士族の独占ではない。近代的な装備と編成、それに三菱船団の機動力がそれを実現したのだった。
この戦中、明治天皇は京都に赴き戦況の報告を受けた。7月末には政府軍の勝利が決定的になったので、神戸から三菱の社船広島丸に乗って東京に戻った。この時の明治天皇の御製(「千代の光」所収)—
「あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山」
のちに三菱には金一封が下賜され、社長の彌太郎は銀杯ほか、航海のお供をした彌之助と石川には白縮(しろちり)1匹(注2)ほかを賜った。
この戦いでの彌太郎の立場は微妙だった。立志社を興した板垣は間もなく東京に戻ったが、高知の民権運動は活発化していた。即刻民選議院の設立が認められぬなら、西郷に呼応して武器をとるべしとの強硬意見も強かった。三菱の船を高知にまわせと迫る者もいた。幸か不幸か、鹿児島士族との連携がうまくいかず高知の民権派の蜂起は不発に終わったのだが、同郷の彌太郎としては辛いところだった。
西南戦争における軍事輸送は、国家の信頼を勝ち得るとともに、三菱が一大産業資本として発展する財政的基盤を築いた。「国家とともにある」との信念を確固たるものにした三菱は、先に無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納した。のち、更に買い増して所有船61隻となり、わが国の汽船総トン数の73%を占めるにいたった。
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(注1)
明治政府の華士族への家禄支給の廃止政策
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(注2)
ひき=布地の単位。2反
文・三菱史料館 成田 誠一
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年8月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。