三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.17 東京に屋敷を買う

東京に屋敷を買う
明治初期の下町風景(小林清親『東京名所図』より)

明治10(1877)年の西南戦争で政府軍の輸送を担当した三菱だったが、この戦争で「莫大な利益」をあげたと叩かれた。今日明らかになっている史料では、戦費総額4156万円、三菱の御用船運航収入総額は299万円。当期利益は93万円だった。これが「莫大」かどうかはともかく、当時の東京市の年度予算を超す数字ではあった。

彌太郎はこの利益を鉱山事業などに投資し一大産業資本を形成していくわけだが、傍ら、東京に大きな屋敷を三つ購入している。

屋敷を三つ

まず、上野の不忍池(しのばずのいけ)に程近い下谷茅町(したやかやちょう)。もともとは高田藩榊原家の江戸屋敷、買ったのは明治11年だった。本郷台地の先端8500余坪。東北から江戸に入る街道を睨(にら)む要衝(ようしょう)の地ということで、かつて徳川家康が腹心の榊原康政(さかきばらやすまさ)に与えたものである。明治維新のどさくさの中で人斬り半次郎こと桐野利秋(きりのとしあき)が取得した後、舞鶴の旧藩主牧野弼成(すけしげ)のものとなっていた。

彌太郎は周辺の土地も買い上げ、敷地を倍近くにした上で母屋を建て直し、15年に駿河台から移り住んだ。森鴎外や夏目漱石の小説にも出てくるが、人々には「気になる存在」だった。彌太郎は共同運輸とのビジネス戦争の真っ只中で癌に倒れたが、この屋敷で最後まで指揮を執り、家族と三菱幹部が見守る中で、波瀾に満ちた50年の生涯を終えた。明治18年の2月だった。

茅町本邸と呼ばれたこの屋敷は明治29年に、長男の久彌によって、ジョサイア・コンドル設計の洋館と、名大工大河喜十郎(おおかわきじゅうろう)の手になる和館とに建て替えられた。久彌たちは50年住んだが、第2次大戦後GHQに接収されキャノン機関が入った。のち国有財産となり、永らく司法研修所として使われた。現在は重要文化財であり修復されて、東京都の「旧岩崎邸庭園」として公開されている。

旧岩崎邸庭園

所在地:東京都台東区池之端

趣味の庭園づくり

二つ目。下町の深川清澄(きよすみ)。久世大和守(くぜやまとのかみ)ほかの下屋敷跡をいくつか買い入れ、纏(まと)めて和風庭園にした。岩崎家深川別邸、約3万坪。今日では清澄庭園という。彌太郎は巨石・名石・庭木を全国から集めた。明治13年に一応完成したので「深川親睦園」と名付け三菱の社員の親睦の場とした。

清澄庭園

岩崎家深川別邸は1923年の関東大震災の際に避難場所として開放され、多数の人命を救った。翌1924年、久彌によって東京市に寄贈され、1932年に清澄庭園として開園。

所在地:東京都江東区清澄

公会式目」と題した利用規程には、「放歌狂吟、人の歓びを破るなかれ」「人に酒を強いるなかれ」「乱に及ぶなかれ」とある。まだまだ豪快な土佐流の宴会が盛んだったのだろう。

公会式目

明治初期に定められた「公会式目」は現在の飲酒マナーにも通じる。

一、毎年春秋の両季を以て 酒を親睦園に置き 社員を会する者は 平生の労を慰し 同社の親睦を結ばしめんと欲するなり。互に礼譲を守り 務めて和楽を主とし 人に敬を失する勿(なか)れ。自ら咎(とが)を招く勿れ。

一、酒を置くは歓を尽すに止り専ら倹素を要す、二汁五菜に過ぐべからず。

一、歌妓(芸者)を召すは酒を行らしむるに止る。猥褻の具となす勿れ。放歌狂吟 人の歓を破る勿れ。

一、飲酒は量りなし。各其量を尽すを以て度となし、人に酒を強ゆる勿れ、乱に及ぶ勿れ。

一、集散は時を以てし 時に後(おく)れて会し 時に後れて散ずる勿れ。

右之条々 我社公会式目となし社員に示すもの也

日本郵船歴史博物館所蔵

彌太郎の没後になるが、池のほとりにジョサイア・コンドル設計の洋館が建てられた。社員クラブ兼ゲストハウスとして使われ、内外の賓客を招いての園遊会も催された。築庭は彌太郎一代では成らず久彌の代までかかった。

三つ目の、駒込の六義園(りくぎえん)も広大だった。岩崎家駒込別邸。もともとは五代将軍綱吉の側近柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が造った3万余坪の回遊式築山泉水庭園で、維新後は荒れるにまかされていた。

造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていた。1938年に久彌によって東京市に寄贈された。国の特別名勝。

所在地:東京都文京区本駒込

彌太郎は、樹木数万本を房総から移植した他、池の周りに全国各地の巨石を配し、四阿(あずまや)も建てるなど、修復に力を入れた。彌太郎の没後も、彌太郎の抱いたイメージを追って工事は延々と続けられた。

清澄庭園や六義園は、今日、いずれも大都会の中の貴重な緑のエリアとして、人々のいこいの場になっているが、大正と昭和のある時期に、久彌から東京市に寄付された。久彌は、物にこだわらず、みんなで使うのは当然のことと、淡々としたものだった。

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。