三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.21 三菱の独占ゆるすまじ

三菱の独占ゆるすまじ
大熊退治と海坊主退治。
「画報近代百年史」より

台湾出兵の際の軍事輸送で政府の絶大な信頼を得た三菱は、第一命令書により海運助成策を独占的に享受、明治10(1877)年の西南戦争では政府の要請に応えて全社をあげて軍事輸送を担った。

第一命令書

1875年に交付された政府からの命令書。政府購入の外国船13隻を三菱が受託し、助成金を得た際に出された。三菱にとって有利な条件が多々含まれていた。

政府と深い信頼関係に結ばれた三菱は、国のしくみの中に確固たる地位を得、発展する日本経済の中でも大きな役割を担う。当時、帝都の人々は、黒塗りの二頭立ての馬車がカラカラと音をたてて走って来ると、岩倉右大臣(いわくらうだいじん)か大久保参議かそれとも岩崎社長かと立ち止まったという。

だが、翌11年、大隈重信とともに三菱助成を推進してきた大久保利通が、馬車で紀尾井坂にさしかかったとき暗殺されてしまう。出る杭が打たれる前兆だった。

自由民権運動が国会開設要求を強める中で、伊藤博文と大隈の意見対立は深刻化した。伊藤は漸進的(ぜんしんてき)な国会開設とプロシャ風の君主の権限が強大な国家をめざす。大隈は福沢諭吉に近い意見で早急な国会開設と英国流の議院内閣制の実現を主張する。

14年、不明朗な北海道官有物払下げ問題で大隈が舌鋒(ぜつぽう)鋭く政府に迫った。

批判にさらされた政府は払下げ承認を撤回、返す刀で参議大隈を罷免(ひめん)し、国会を9年後に開設する勅諭(ちょくゆ)を発した。このとき、駅逓総監前島密(えきていそうかんまえじまひそか)ら若手書記官たちも大隈罷免に抗議して官界を去る。明治14年の政変である。

自由民権運動は勢いを得る。板垣退助、後藤象二郎らが自由党を、大隈らが立憲改進党を結成し、政党政治の実現をめざした。伊藤は最も大隈を警戒した。「大隈は福澤諭吉の知恵と岩崎彌太郎の財力に支えられている。三菱を叩かねばならぬ…」。

共同運輸の設立

政府系の新聞・雑誌は、連日三菱を糾弾した。「三菱は政府から莫大な助成金を受け取りながら高い運賃を国民に押付け、儲けを金融や炭坑、鉄道などに投じて蓄財している。三菱の海運独占反対。助成撤回すべし」。

政府は三菱に対抗しうる海運会社の設立を目論(もくろ)む。すかさず彌太郎は、基礎脆弱な日本の海運業界の疲弊(ひへい)を来すと反論する。

自由党の機関紙自由新聞も三菱叩き立憲改進党叩きのキャンペーンを張った。「立憲改進党は三菱党にして偽党、三菱は帝国の領海を私有する海上政府、海上を制するは岩崎彌太郎海坊主、これを退治すべし」。演説会場では、大熊と海坊主の人形を切り裂くパフォーマンス。自由党と立憲改進党の足の引っ張り合いは薩長政府の思うツボだ。

暴漢に襲われた板垣退助が、「板垣死すとも自由は死せず」の名言をはいて男を上げたが、後に政府の仲介でヨーロッパに外遊して総スカン。自由民権運動は失速する。流れは完全に薩長政府。

三菱の海運独占ゆるすまじ。包囲網は縮まっていく。新政府とともに歩み日本の海運の王者になった三菱は、今や政府の目の仇(かたき)。第三命令書が発せられ三菱への経営監督が強化された。

第三命令書

第三命令書

第一命令書、第二命令書を訂正する第三命令書が交付された。海上運送に専念し、商品の売買を行ってはならない、払い下げ代金を全納するまでは船を質入、売却してはならない、修繕の際は予め政府に届け出なければならないなど、監督の強化が伺える。

だが、三菱に対抗し得るまともな海運会社がない。強力な海運会社の立ち上げが急務だ。渋沢栄一らが奔走した。

そして明治15年、政府の後押しで三井を中心にアンチ三菱連合の共同運輸が設立された。

翌16年営業開始。即、不毛のダンピング合戦突入。折から、維新以降の経済政策のツケの清算ともいうべき松方デフレの真っ只中だった。

  • (注)

    今日の特別法にあたる

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年1月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。