三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。トマス・グラバー

若き日のグラバーと当時の長崎
若き日のグラバーと当時の長崎

「長崎のグラバー邸はかつて三菱重工業のものだった」と言うと「へえ~」と反応する人は三菱の関係者にも多いと思う。長崎湾を見下ろす南山手の丘の上。文久3年(1863)に建てられた。プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の舞台に擬(ぎ)せられている。ただしグラバーはピンカートンのように愛妻ツルを裏切っていないしツルは自害などしていない。ちなみに、初演から今年で100年目の由。

グラバー邸は幕末には武器弾薬などきな臭い取引の舞台となったが、明治維新後は普通の外国人の別荘。昭和14年(1939)に三菱重工業がグラバーの子孫から購入した。戦後の昭和32年(1957)、造船所が長崎鎔鉄所として発足してから100年を迎えた記念に長崎市に寄贈された。

トマス・グラバーはスコットランドの生まれ。安政6年(1859)、開港後1年の長崎に、香港を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の代理人として着任した。21歳だった。

ほどなくグラバー商会を設立、幕末の激動の中でオールトやウォルシュ、シキュート、クニフレルなど米欧の貿易商人たちと競合しながら、西南雄藩(ゆうはん)に艦船・武器・弾薬の類を売り込んだ。1860年代半ばには長崎における外国商館の最大手になっていた。

グラバーには長期的な視野からの活動も多い。長州藩の伊藤博文や井上馨らの英国への密留学を支援したほか、薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)や寺島宗則(てらしまむねのり)、森有礼(もりありのり)らの秘密裏の訪欧にも協力、結果として日本の近代化に大きな役割を果たしている。

明治維新で倒産

慶応3年(1867)には岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任してきた。早速、彌太郎をグラバー邸に招き商談に取りかかる。坂本竜馬や後藤象二郎も出入りしていた。

グラバーは貿易にとどまらず事業にも乗り出した。慶応4年、肥前(ひぜん)藩から経営を委託された高島炭坑にイギリスの最新の採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始した。

また、ほぼ同時期、グラバー邸から1キロほど南の小菅に薩摩藩と共同で日本初の洋式ドックを建設した。いわゆるそろばんドック(注1)で、設備はすべてイギリスから輸入した。

そういうグラバーだったが「日本国内の政局の流動化を背景に…取引の重心をしだいに投機的かつ短期的性格の強い艦船や武器の取引にうつし… 」(杉山伸也『明治維新とイギリス商人』)一攫千金をねらうようになっていった。

ところが皮肉にも、グラバーが肩入れした西南雄藩は怒涛の勢い討幕の兵を進め鳥羽伏見の戦いで一気に勝敗を決してしまう。グラバーの思惑はずれて大規模内戦なし。グラバー商会は見越(みこし)で仕入れた大量の武器や艦船を抱え込む。おまけに時代変革の混乱の中で雄藩への掛売りの回収は滞り、明治3年(1870)、資金繰りに窮して倒産するはめに。

バブルがはじけてグラバーは、失意のままに故郷のスコットランドに帰ったかというと、そうではない。日本にとどまり、国際ビジネスの豊富な経験と多彩な人脈を活かし、事業主ではなくビジネスマンとして死ぬまで活躍した。まさしく19世紀の冒険商人。ロマンあふれる人生だった。


グラバーと鹿鳴館
グラバーと鹿鳴館

幕末の西南雄藩に武器弾薬を供給した外国商人の一人トマス・グラバーが、明治維新後、資金繰りに窮して破産してしまったことは前回述べた。高島炭坑は人手に渡り、間もなく官営化され、のちに後藤象二郎に払い下げられた。ところが石炭の国際的な取引については日本人はまだまだ経験不足。グラバーは、経営権は失ったが引き続き高島炭坑に地位を得た。

明治14年(1881)、今度は三菱が高島炭坑を買収した。管事(社長に次ぐ立場)の川田小一郎は言った。「高島の石炭の、支那香港その他への輸出の采配はグラバー殿にお願いしたい。ただし炭坑の支配人である瓜生震(うりゅうふるう)とは納得ずくでやること。また、取引の状況については、支配人経由で毎月本社に報告願いたい」。グラバーは答えた。「川田殿、岩崎殿にお伝え下さい。必ずや満足いただける結果を出しましょう」。

大見得を切ったとおりグラバーは石炭の国際取引を巧みにこなし、彌太郎の期待に応えた。その後三菱の本社の渉外関係顧問に迎えられ、愛妻ツルとともに長崎から東京に移り住んだ。

最初の子は夭折(ようせつ)したが、次男トムは順調に成長した。グラバーとトムの音を取って倉場(くらば)富三郎と称した。父が三菱の顧問なので三菱の子弟寮から学習院に通い、やがてペンシルバニア大学に留学、異郷で岩崎久彌らと交友を深めた。久彌は父彌太郎が逝ったのち三菱を継いだ叔父彌之助の勧めで留学していた。経営学や米国史を学び、帰国して2年後に三菱の三代目社長になる。

外国人社会のリーダー

グラバーは技術導入など三菱の国際化路線のアドバイザーとして久彌を輔(たす)けた。キリンビールの前身ジャパン・ブルワリーの設立にも参画した。グラバーに対する三菱の評価は高く、たとえば明治34年の月給は手当込みで720円という厚遇で、最高幹部である管事の荘田平五郎の600円よりも多かった。

在日外国人社会における人望は絶大で、鹿鳴館の名誉セクレタリーにも推され、明治日本の国際交流に貢献した。また、かつてグラバーの尽力で密かに英国に留学した伊藤博文は、明治政府の高官となってからもグラバーと接触を保ち、私的に意見を求めることもあったという。

二代目社長の岩崎彌之助は伊藤にグラバーの叙勲を働きかけたことがある。「グラバ…日清ノ事起キルヤ身長崎ニアリテ海外各国貴紳及ビ海軍士官、新聞記者等ト往来シ…朝廷軍ヲ出スノ正義ナルヲ説キ…隠然我外交ニ裨益スルコト固ヨリ一二ニ止マラズ…」。

明治41年にグラバーは、明治維新に功績があったとして、外国人としては破格の勲二等旭日章を贈られた。その3年後に腎臓炎で他界。73歳だった。日本を愛し、明治日本を生きぬいた英国人は、長崎に還り、愛妻ツルとともに国際墓地に眠っている。

息子の倉場富三郎はというと、米国留学から戻って三菱には入らず、長崎で遠洋漁業の会社に勤務した。学究肌で仕事のかたわら「魚類図譜」をまとめたりしている。グラバー邸は昭和14年(1939)に三菱重工業に売却した。

第二次大戦が始まり、混血なるがゆえに日英のはざまで苦しんだ富三郎だったが、戦後になって74歳で自ら孤独な死を選んだ。国際墓地の父母のかたわらに葬られた。

  • (注1)

    修繕船をレールに乗せて引き上げるシステム。

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年5、6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。