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助成プロジェクト 成果レポート

【成果報告会レポート】希少な日本画「帰来迎図(かえりらいごうず)」を後世に伝えるために郷司泰仁氏/公益財団法人 香雪美術館 学芸員
金省我(キム ソンア)氏/株式会社 岡墨光堂 修復部

(左)香雪美術館 郷司泰仁氏、(右)岡墨光堂 金省我氏
(左)香雪美術館 郷司泰仁氏、(右)岡墨光堂 金省我氏

香雪美術館(こうせつびじゅつかん)が所蔵する「帰来迎図(かえりらいごうず)」は、南北朝時代(14世紀)に描かれた貴重な作品ですが、損傷が著しかったため、これまで公開の機会がほとんどありませんでした。修理を施さないまま使用を繰り返すと劣化が進み、損傷する恐れがあったことから、香雪美術館は三菱財団の助成を受けて、株式会社 岡墨光堂(おかぼっこうどう)に修理を依頼しました。2023年9月11日に開催された成果報告会では、「帰来迎図」の文化的な価値とともに、これまであまり世間で知られることのなかった調査・修理の様子が報告されました。

現存するただ一幅の「帰来迎図」

2019年度の文化財保存修復分野の助成対象となった「帰来迎図」を所蔵している香雪美術館(神戸市)は、重要文化財19点、重要美術品33点を含め、仏教美術、書跡、中近世絵画、茶道具など幅広いジャンルの作品を所蔵する美術館です。同館が所蔵する「帰来迎図」は、重要美術品(重要文化財に準ずる価値のある作品)の一つです。その希少性について、香雪美術館学芸員の郷司泰仁氏は、こう解説します。

「来迎図とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏様が現世に往生者(おうじょうしゃ/亡くなった人)を迎えにきて、西方浄土(さいほうじょうど)、いわゆる極楽に連れて帰る様子を描いた作品のことです。一般的な来迎図では阿弥陀如来が上空から迎えにくる場面、つまり左上から右下へと降りる様子が描かれるのですが、この『帰来迎図』には往生者を連れて帰る場面が描かれています。迎えにくる場面を描いた作品は多数確認されていますが、連れて帰る場面だけが画幅いっぱいに描かれた作品は、ほかに例がありません」

左は「帰来迎図」の全図。右は一部を拡大したもの。 ※資料提供:香雪美術館
左は「帰来迎図」の全図。右は一部を拡大したもの。 ※資料提供:香雪美術館

「帰来迎図」の画面上方には遠くの山並みや空が描かれ、下方は地面という構図。地面には堂舎(大小の家々、建物)があり、その前で赤鬼と青鬼が合掌しています。立ち上る雲には仏の一群が乗り、西方浄土へ向かいます。一番大きな仏が阿弥陀如来、その左前方が観音菩薩です。周囲にいる仏たちは篳篥(ひちりき)や横笛などを演奏していることから、奏楽菩薩(そうがくぼさつ)と総称されます。
観音菩薩は金色の蓮華(れんげ)を捧げ持っていて、そこに往生者の姿が小さく描かれています。往生者は剃髪していることからお坊さんと考えられます。

阿弥陀如来(一番大きな仏)の左前に座る観音菩薩が持つ蓮華に乗っているのが往生者。その周囲では奏楽菩薩(そうがくぼさつ)が楽器を演奏している。 ※資料提供:香雪美術館
阿弥陀如来(一番大きな仏)の左前に座る観音菩薩が持つ蓮華に乗っているのが往生者。
その周囲では奏楽菩薩(そうがくぼさつ)が楽器を演奏している。 ※資料提供:香雪美術館

「修理のために本作を解体した後、赤外線撮影や顕微鏡撮影など、さまざまな科学的調査を行いました。その結果、彩色(さいしき)の技術や画材などについて重要な情報を得られました。こうした情報を他の作品と比較検討することで、『帰来迎図』の研究をさらに進めることができます」

修理のプロが見た「帰来迎図」の損傷状況

「帰来迎図」の修理を担当したのは、国宝や重要文化財などの保存修理を数多く手がけてきた株式会社 岡墨光堂(京都市)です。同社で修理事業に携わる金省我氏はまず、「帰来迎図」の修理前の損傷状態について解説しました。

「作品に斜めから光を当てて観察すると、横方向に著しい折れが多数発生していることがわかります。折れた箇所に適切な処置をしないまま展示などの使用を繰り返すと、折れ山が亀裂に進行する恐れがあるため、非常に危険な状態です」

画面下方にみられた画絹の折れ(黄色の枠内)※資料提供:岡墨光堂
画面下方にみられた画絹の折れ(黄色の枠内)※資料提供:岡墨光堂

「次に画面上部を調べました。茶色に見える部分がオリジナルの画絹ですが、透過撮影すると、ところどころ黒ずんだ部分が見えます。この黒い部分は、過去に修理した際に裏から充てられた補修絹です。この補修絹は絵が描かれているオリジナルの画絹とは織り組織が異なっていたため違和感があり、鑑賞の妨げになるばかりか、オリジナルの表現だと誤解される恐れがあります。他にも、絵具が剥落して下描き線が露出するなど、多くの損傷が見られました」
※補修絹:欠失した箇所を補う絹

画面上方の補修絹(黄色の枠内)※資料提供:岡墨光堂
画面上方の補修絹(黄色の枠内)※資料提供:岡墨光堂

作品を詳細に調査した結果をもとに協議を重ね、修理方針を決定します。今回は過去の修理で使われた補修絹を取り替え、裏打紙を全て打ち替えるなどの作業を行うことにしました。

修理方針の協議 ※資料提供:岡墨光堂
修理方針の協議 ※資料提供:岡墨光堂

作品の状態を見極めながら慎重に

掛軸では、作品が描かれた部分を「本紙(ほんし)」と呼び、本紙の周囲を装飾する裂地を「表装裂(ひょうそうぎれ)」と呼びます。掛軸装は本紙と表装裂に和紙で裏打ち(補強)することで、本紙を支える掛軸としての強度と構造を保っています。

①:掛軸の構造。②:軸木(じくぎ)や表装裂を外す。③:湿りを与えながら総裏紙を除去。※資料提供:岡墨光堂
①:掛軸の構造。②:軸木(じくぎ)や表装裂を外す。③:湿りを与えながら総裏紙を除去。※資料提供:岡墨光堂

「帰来迎図」の本紙は、肌裏紙(はだうらがみ)、増裏紙(ましうらがみ)、総裏紙(そううらがみ)の3層の和紙で裏打ちされていました。掛軸装を解体した後、湿りを与えながら、ピンセットで総裏紙と増裏紙を除去します。この段階では本紙に接している肌裏紙は残します。次はクリーニング。作品表面に濾過水を吹きかけると、水溶性の汚れを含んだ水が下に敷いた紙に落ちてきます。この作業で画面が全体的に明るくなりました。

①:クリーニング作業。左:表面に濾過水を吹きかける。②:下に敷いた紙についているのが本紙から出た汚れ。※資料提供:岡墨光堂
①:クリーニング作業。左:表面に濾過水を吹きかける。②:下に敷いた紙についているのが本紙から出た汚れ。※資料提供:岡墨光堂

きれいになった本紙に「剥落(はくらく)止め」を行いました。日本画では粉末状の絵具を膠(にかわ)と呼ばれる動物性のタンパク質で溶き、画面に接着させます。長い年月によって接着力が低下すると絵具が剥落するため、これ以上損傷が進行しないように、膠水溶液を絵具に塗布して接着力を強化します。次に、裏面処置を行う前に、本紙表面に薄い養生紙を2〜3層貼り付けて、絵具層を保護します。

菩薩の衣を描いた白い絵具に筆で膠水溶液を浸透させる。絵具は接着力が低下しており、至急処置が必要だった。※資料提供:岡墨光堂
菩薩の衣を描いた白い絵具に筆で膠水溶液を浸透させる。絵具は接着力が低下しており、至急処置が必要だった。※資料提供:岡墨光堂

本紙を乾燥させ、完全に安定したところで裏返し、残していた肌裏紙を除去しました。少しずつ湿りを与えながら紙をほぐし、本紙を傷めないように肌裏紙の繊維だけを抜き取るように慎重に作業します。修理工程のなかで、もっとも時間のかかる作業です。続いて、過去の修理に使われた補修絹も除去しました。少しずつ湿りを与えて接着力がゆるんだタイミングを見計らって作業します。

過去の補修絹を除去した後、オリジナルの画絹が欠失している箇所に新たな補修を施します。
「修理には人工的に劣化させた絵絹を使いました。本紙は経年劣化でかなり脆弱になっているので、それと強度をそろえるためです。作業が完了した後は、厚みにムラのない1枚の画絹のような状態になります」

欠失した部分に、人工的に劣化させた補修絹にて補填する。※資料提供:岡墨光堂
欠失した部分に、人工的に劣化させた補修絹にて補填する。※資料提供:岡墨光堂

裏面の補修が終わると、本紙を支えるために新しく裏打ちを施します。本紙に触れる1層目の肌裏紙(はだうらがみ)には、薄くて丈夫な楮紙を小麦澱粉糊(でんぷんのり)で貼ります。この楮紙は、本紙の色味に合わせて茶色がかった色に染めています。2層目の増裏紙(ましうらがみ)には美栖紙(みすがみ)を用います。美栖紙は楮繊維に胡粉(ごふん/貝殻から作る白い顔料)を加えて漉(す)いた柔らかな和紙です。
※楮(こうぞ):和紙の原料となるクワ科の落葉低木

次は「折れ伏せ入れ」。すでに折れや亀裂が入っている箇所、将来的にそのような損傷が予測される箇所に細い帯状の和紙を貼って補強します。

折れ伏せ入れの際は作業台の下から光を当て、補強が必要な箇所を見やすくする。※資料提供:岡墨光堂
折れ伏せ入れの際は作業台の下から光を当て、補強が必要な箇所を見やすくする。※資料提供:岡墨光堂
左が修理前、右が今回折れ伏せ入れを施した後。過去の修理より細かく折れ伏せ入れをしたことがわかる。※資料提供:岡墨光堂
左が修理前、右が今回折れ伏せ入れを施した後。過去の修理より細かく折れ伏せ入れをしたことがわかる。※資料提供:岡墨光堂

「文化財の修理は作品のオリジナルを尊重することが前提であるため、絵具や線を新たに描き足すことはありません。補修絹を取り替えた箇所のみ、周囲に調和するように色を整えました。本紙の周囲に使われていた表装裂(ひょうそうぎれ)についても同様の考えに基づき、もとの裂をクリーニングし、補修を加えて再使用しました。現在の蚕は品種改良され、昔の蚕よりも太く丈夫な絹糸を吐くため、それを使って昔のような絹地を織ることはできません。本紙と同様に表装裂も再使用が可能なものは元のものを取り付けるようにするなど、当時の技術を伝えることも大切なのです」

美しい透かし彫りが施された軸先も、以前のものを再使用した。※資料提供:岡墨光堂
美しい透かし彫りが施された軸先も、以前のものを再使用した。※資料提供:岡墨光堂

裏打ちした本紙に表装裂を接合し、さらに裏打ちを行います。最後の裏打層である総裏紙には楮繊維に白土を加えて漉(す)いた宇陀紙(うだがみ)を用います。裏打工程が完了後は乾燥板に貼って十分に乾燥させます。その後、新調した軸木を取り付け、その先端に軸先を取り付けます。最後に、保存用の桐箱と太巻添軸を新調し、今回の修理作業が完了しました。

修理後の「帰来迎図」。クリーニングし、絵具の剥落止めを行ったため、修理前より色が鮮明に蘇った。横方向の折れが解消され、画面が平滑になったことで、細部の表現が見やすくなり、鑑賞性が向上した。※資料提供:岡墨光堂
修理後の「帰来迎図」。クリーニングし、絵具の剥落止めを行ったため、修理前より色が鮮明に蘇った。横方向の折れが解消され、画面が平滑になったことで、細部の表現が見やすくなり、鑑賞性が向上した。※資料提供:岡墨光堂

「現在まで伝わる美術品、文化財があるのは、先人たちが何世代にもわたって作品を修理し、大切に保存してくれたおかげです。経年による劣化や損傷を止めることはできませんが、適切な時期に的確な処置をすることで修理が必要になってくる周期を遅らせることができます」

貴重な修理技術を惜しみなく公開し、愛情をこめてていねいに解説してくれた岡墨光堂の金氏、そして希少な「帰来迎図」を守り、研究を続けている香雪美術館の郷司氏に、会場から大きな拍手が送られました。

金氏(写真左)、郷司氏(写真中央)と三菱財団 七條氏(写真右)。
金氏(写真左)、郷司氏(写真中央)と三菱財団 七條氏(写真右)。

プロフィール

香雪美術館

朝日新聞社を創業した村山龍平(りょうへい)(1850~1933、号:香雪)が収集した美術品を収蔵・公開する美術館で、六甲山の南山麓にあたる神戸市東灘区御影に1973年開館。敷地内には彼が住んでいた旧村山家住宅(国指定重要文化財)があり、明治時代の洋館や茶室などが保存されている(通常非公開)。2018年には朝日新聞社が所在する大阪・中之島に、2館目の展示施設として中之島香雪美術館が開館した。

株式会社 岡墨光堂

明治27年(1894)、京都市中京区の地で創業。当初は京都画壇や東京画壇の新作絵画の表装を主たる生業としていたが、終戦後に国宝や重要文化財の修理を本格的に手がけるようになった。現在、京都国立博物館・文化財保存修理所の一室にて指定文化財の修理を継続し、中京区の本社では未指定文化財などの修理や新作の表装を行なっている。令和6年(2024)には創業130周年を迎え、装潢文化財の修理に、より一層の貢献を決意している。