未来を拓く一歩を支援
助成プロジェクト 成果レポート
三菱2代目社長・岩崎彌之助は、古美術品に関心が深く、日本の古美術品の海外流出を防止するとともに、世の中に広く公開したいと考え、静嘉堂を設立しました。コレクションは一括で所蔵されたものが多く、これは全体象を理解するのに大変役に立つ貴重なものばかりです。
なかでも今回注目されているのは、江戸時代の大名家、越後国新発田藩主・溝口家旧蔵の能面のコレクション。67面がひとつずつ面袋に入れられ、4つの簞笥に収められたまま、最近になるまで、ひっそりと文庫に眠っていました。能面には修復が必要な状態のものが多く、調査すると、古いものは室町時代まで遡り、いずれも大変価値のあることが判明しました。そしてついに、約2年間の修復作業を終えた能面が、10月13日から「能をめぐる美の世界」と題した静嘉堂文庫美術館の展覧会で公開されています。三菱財団は能面67面のうち、修復が必要な33面の修復事業に対して助成をしています。
【vol.4】長い時を経て、いま蘇る!
岩崎彌之助の能面コレクション~その幽玄なる世界観と、修復までの静嘉堂の思い河野元昭氏/静嘉堂文庫美術館 静嘉堂文庫 館長、成澤麻子氏/静嘉堂文庫 主任司書 能面修復事業担当
三菱財団は設立50周年を記念し、2019年度に文化財修復助成プログラムを立ち上げました。それに先立つ2018年10月に、公益財団法人静嘉堂が所蔵する越後国新発田藩主・溝口家旧蔵の能面67面のうち、33面の修復事業に対して助成をしました。晴れて約2年間の修復作業を終え、10月13日から「能をめぐる美の世界」と題した展覧会が、静嘉堂で開催されます。本イベントの開催を前に、世田谷区岡本にある静嘉堂文庫に伺い、河野元昭館長と能面修復事業を担当された成澤麻子主任司書に話をお聞きしました。
(取材日2020年9月16日)
古美術品という供物を、近代日本の国民全体の祖先に捧げる。岩崎彌之助の思いが込められた静嘉堂
1892年(明治25年)、三菱2代目社長・岩崎彌之助が自身の恩師であり、明治時代を代表する漢学者・歴史学者である重野安繹(号は成齋)を文庫長に迎え、神田駿河台の自宅内に設立したのが静嘉堂文庫です。彌之助は若いころから古美術品に関心が深く、特に刀剣については明治維新後の廃刀令で名刀でも手に入れやすくなったため、当時から熱心に収集していたそうです。こうした古美術品のコレクションに加え、重野博士の歴史研究・国史編纂を支援する目的もあり、古典籍の本格的な収集が始まりました。
静嘉堂という名前は中国の四書五経の一つ、詩経の中にある『籩豆(へんとう)静嘉』に由来します。籩豆静嘉とは「祖先の霊前に十全なる供物を整える」という祖先崇拝を意味する言葉です。河野館長は自らの個人的な仮説であるとしながら、「彌之助にとっては、“祖先”とは近代日本の国民全体の祖先という意味で、その“祖先”に対して古美術品という供物を捧げるといった思いを、この籩豆静嘉という言葉に込めていたのではないでしょうか」と思いを寄せます。
河野館長は「明治維新によって近代国家が成立し、日本人が初めて自ら“国民”としてのアイデンティティを求める時代となりました。日本の歴史の精華である美術品や、歴史研究に不可欠な古典籍を供物に例えるのは、彌之助であれば十分に考えられることです。また、彌之助は当時、日本の古美術品が大量に海外に流出していた状況を憂いており、その流出を防止することも、静嘉堂設立のもう一つの大きな目的でした」と解説を続けます。
静嘉堂のコレクションの特徴は、一括で購入したものが多いこと。こうした収集に関しては、売りに出た蔵書の中から必要なもの、重要なものだけを選んだり、分割したりして一部分を購入することも多いそうですが、静嘉堂の場合は丸ごとそのまま購入していました。例えば、中国清末の著名な蔵書家である陸心源の蔵書が売り出されたときも、重野博士の助言によって、全約4万冊を一括でコレクションに組み入れました。散逸することなく、陸心源が所蔵していたときと同様に保管されており、世界的に大変貴重なコレクションになっています(静嘉堂文庫 宋元版について)。
河野館長は「一括で所蔵されたものを見ることは物事の全体像、総体を理解するのに大変役に立ちますし、大事なことです。」と力説します。
能を習っていた彌之助が、旧新発田藩主の溝口家から個人で一括購入した能面コレクション?
では、今回の主役である能面は、どういう経緯を経て購入されたのでしょうか? 前出のように、能面も静嘉堂の特徴である一括コレクションですが、もともとは彌之助の個人的な趣味の関係で購入したものと推測されます。
彌之助が50歳を目前にしたころ、母・美和の強い勧めもあり、当初は親孝行のつもりで謡(うたい:能の声楽)を習い始めました。明治時代の能楽の第一人者である梅若実(うめわかみのる)に入門し、週に数日、朝2時間ほど稽古をつけてもらいました。大変熱心に取り組んだことで、一年を経たずしてお披露目の会を開くほどの上達ぶりだったようです。梅若実が遺した「梅若実日記」には、彌之助や一緒に習っていた三菱幹部の稽古の様子が克明に描かれています。
能面修復事業を担当された主任司書の成澤さんが、日記に書かれた彌之助の様子について、次のように紹介してくれました。
「日記には、彌之助が難しい演目に四苦八苦し、師匠の梅若に叱咤されながらも、一生懸命に稽古している様子が描かれており、その熱中ぶりがよくわかります。趣味の域をはるかに超えていたと思いますが、そもそも何ごとに対しても学ぶことが好きな彌之助は、これと決めると熱心に取り組む性格で、そんな人柄も反映していると思います。」
さて、この日記の中に、1903年(明治36年)の年末ごろの日付で、<能面を所有していた溝口家(旧新発田藩主、明治維新により伯爵家)が、これを売りに出したいと思っているという情報が梅若の耳に入った>との記述があります。能面についての記録はこれだけで、岩崎家や静嘉堂には何も残っていません。しかし、梅若実が自らの弟子で財力もある彌之助に、この売り出し情報を伝えたことは容易に推測できるところです。
そうだとすると、この能面は翌1904年(明治37年)の初めには彌之助の手に渡っていたものと想像されます。このように能面は彌之助個人の所有物として、また古美術品というよりも、習っていた能の必需品として購入されたものだったのでしょう。
成澤主任司書は「記録にあるわけではありませんが……」と前置きしたうえで、「お能を習う方は、まずは謡のお稽古から始まります。その次の段階として、能装束を付けないで舞う“仕舞”というものがあり、彌之助は自ら仕舞を舞ったことまではわかっています。いずれは面をつけて……と夢みたのでしょうね。」と想像を膨らませました。
さらに「1907年(明治40年)に高輪の邸宅(今の開東閣)が完成しますが、もしかすると彌之助はその完成記念に、この能面を使って能の会を開こうと計画したのかもしれないと想像を巡らすのも楽しいですね。」と付け加えました。しかし、残念なことに彌之助は、高輪の邸宅が完成した直後の1908年(明治41年)3月に病気で亡くなります。享年57でした。持ち主を失った能面は、その後の岩崎家で静かに保管されることになりました。
日本の伝統と潜在意識との邂逅。個人の道具が、後世の人のための美術品に変わるとき
このように能面は、当初は静嘉堂のコレクションではなく、また美術品というよりも自身の「道具」として、彌之助個人が手に入れたものでした。しかし、道具であるということは美術品であることと何ら矛盾しないと河野館長は強調します。
「そもそも日本の美術品の多くは生活の中で使うものでした。日本古来の美術品の在り方だといってよいでしょう。例えば、茶碗は茶道の道具ですが、道具であることと美術品としての価値が高いことが両立しています。」
実は最近、この能面コレクションに関連して、同様のことを実感する印象深い経験をしたという河野館長。先日(9月2日)、観世流シテ方で現在活躍中の観世喜正さんに、能「安達原」の前シテで、静嘉堂の能面を使用して、国立能楽堂で舞っていただく機会を得たときのことです。
「能のすばらしさはもちろんでしたが、この能面コレクションの一つである“曲女”(シャクメ:女面の一種)を付けた観世さんが、舞台でキラキラと輝きながら、様々な表情を見せる姿に大変感動しました。」
能面自身は古いものですから、「古色」という古めかしい色合いがあり、それが味わいでもあります。しかし、観世さんが舞っているときの曲女は、本当に若々しくて、生き生きとし、古色がすっかり消えていたのです。観賞用に展示されているだけではわからない、道具として使うからこその美術的な価値。それが現れる能面のすばらしさを改めて認識したそうです。
「静嘉堂コレクションの背景にある、古美術品と近代日本のアイデンティを結び付けることや、海外への流出防止という動機は、明治という時代の考え方を反映した、むしろ新しいものです。彌之助が自分の生きた時代を意識して静嘉堂を設立したことと同時に、たぶん本人は意識してはいなかったであろう、個人の生活の中で日本の伝統的な形で能面に出会ったことは、大変興味深いことだと思います。」
静嘉堂の書庫に眠っていた能面に目覚めた成澤主任司書の湧き出る思い
彌之助の亡き後は、三菱4代目社長となった長男の岩崎小彌太が静嘉堂を引き継ぎました。小彌太は、現在の世田谷区岡本へ静嘉堂文庫を移転するとともに、コレクションでは特に中国陶器の分野を充実させました。いまや静嘉堂の代名詞とも言える国宝「曜変天目」も小彌太が収集したものです。また彼は、絵画、俳句、茶道など大変多彩な趣味をもつ、文化人でもありました。
ただ、小彌太が能について興味を示したという記録はなく、一揃いの能面は引き続き、岩崎家で静かに保管され、いつしか静嘉堂文庫の書庫に置かれるようになりました。そうした経緯も記録には残っていませんが、67面が一面ずつ面袋に入れられ、それが収められている4つの簞笥は、静嘉堂の所蔵品を管理される方々にとっては気になる存在だったようです。そのお一人である成澤さんが、能面を実際に袋から取り出したのは最近のこと。その時の心情を成澤さんは次のように振り返りました。
「能面のセットが文庫に保管されていることは以前から知っていましたが、実際に袋から取り出したのは5~6年前のことだと記憶しています。能面を見つめているうちに、ずっとこのまま何もしないと、誰にも知られることなく、朽ち果てて終わってしまうという思いがこみ上げてきました。そして、このまま終わらせることなく、広く後世の人に残しておくべきではないか、という気持ちが湧いてきたのです。」
この溢れる思いこそが、当初個人の道具として購入された能面が、静嘉堂の他の所蔵品と同じく、人々にとって価値のある美術品に変容するきっかけとなったのでした。
修復に向けた調査で判明~あらためて確認された能面の学術的な価値とは?
後世に長く、広く伝えていくためには、修復・保護が欠かせません。特に多くの日本の美術品は脆く、か弱いことから保存管理は大変です。昔から、大事な掛け軸などは来客があるときだけ取り出して飾り、帰るとすぐに仕舞うという習慣がありますし、普段飾るものでも、季節に合わせて毎月のように替えていくという具合です。
近代の美術館・博物館などの展示でも、西洋の美術品のように一年中同じ展示物が並ぶということはありません。そうやって大切に扱っても、例えば掛け軸は100年に一度は修復しなければならないといわれ、近年になって保管方法が改良されてからでも、150年に一度は修復が必要です。能面は形が複雑で、彩色が剥げ落ちやすかったり、ひび割れしやすかったりします。にかわも決して頑丈な材料ではなく、貼り付けたものが取れることもあります。
この能面コレクションには保存状態の良いものもありましたが、そうでないものも多くあり、一揃いをすべて公開するには修復が必要でした。修復するには先ずこの能面の美術的、文化的価値を理解することが出発点です。そこで、能面研究の第一人者である武蔵野美術大学名誉教授の田邉三郎助先生 と早稲田大学教授の川瀬由照先生に調査を依頼し、入念に調べてもらったところ、大変価値の高いものであるとの結果が報告されました。
個々の能面の製作年代は、古いものは室町時代まで遡ることができ、いずれも質も高いものであることが判明しました。しかし何といっても特筆すべき点は、江戸中期の大名家の日常をそのまま思い起こさせる能面の保存の在り方でした。この能面のセットには「御面帳」という目録がついており、そこに1788年(天明8年)の日付が記されていました。時期が特定できるということから学術上大変貴重で、この年までにこれらの能面が揃い、溝口家でセットとして使われていたことを示すものでした。江戸時代の大名家にとって、能は生活の一部であったといわれています。
この新発田藩・溝口家でも、能面ひとつひとつを丁寧に面袋に入れ、さらに簞笥に収めて大事に保管されていました。おそらく来客や行事のときに催されていた能舞のたびに、能面を取り出して大事に使っていたことでしょう。「当時の大名家で使っていたままの一揃い、また、そのすべてが面袋や簞笥に収納されていたことは稀で大変価値がある」との報告を受けました。
静嘉堂の古典籍は一括で収集していたことから、ものごとの全体像を理解するのに役に立つと伺いましたが、能面も一揃いとなっていること、それも面袋や面簞笥、更には目録までが付いていたことから、これを所有して使っていた溝口家の能楽を巡る生活ぶりが、断片的というよりも総体として理解できました。個人の趣味で購入したものとはいえ、静嘉堂の収集方針と繋がっていたと感じざるを得ません。
こうして修復の意義が確認され、さらに田邉先生には修復に関する具体的な方法の検討と、実際に修復を行う面打の新井達矢さんを推薦していただきました。東京都羽村市で工房を営む30代の方ですが、創作も多く手掛け、すばらしい実力をお持ちの面打です。22歳の時には、史上最年少で「文部大臣賞奨励賞」を受賞されており、実際に出来上がった修復後の出来映えについても、田邉先生から 高く評価をいただいています。9月2日「安達原」の公演の際、前シテを勤められた観世先生は静嘉堂の曲女(シャクメ)の面を使われましたが、後シテを勤められた先生が使われた般若の面は、実はこの新井さんが作られたものでした。
資金面についても改めて感謝のお言葉を頂きました。「能面を修復して公開するまでには、調査・評価・修理者の手当てなどを経て、初めて実現できるものです。そのために資金面でのサポートは欠かせません。三菱財団さん の資金援助は大変ありがたく、これなしには今回の展覧会は実現できませんでした。あらためて厚く御礼申し上げたいと思います。」
150周年という三菱の歴史を振り返る年にふさわしい展覧会。その見どころと今後の静嘉堂文庫について
長い道のりを経て、今回彌之助の愛蔵から120年を経て公開される能面のコレクションですが、「是非、多くの方に見に来ていただきたい」と、河野館長と成澤さんのお話にも熱がこもります。その見どころを伺いました。成澤さんのお勧めは、道具として使われていた美術品ならではの鑑賞方法です。
「今回は、そのクオリティの高さに加え、何と言っても能面がワンセットとして欠けることなく 揃っていることが特徴です。江戸時代の大名家伝来の能面は他にも優れたものはありますが、いずれも現在、複数の美術館に分散して所蔵されております。溝口家のセットは散逸することなく保存されている貴重なコレクションです。一揃いで見てもらうことで、江戸中期当時の大名家の様子をより細やかに理解できると思います。」
例えば、小面(こおもて)という若い女の面がありますが、溝口家のセットには小面が3つ揃い、それぞれの表情の違いを味わえるとのことです。
「その小面の3つが、どのように使い分けられたのかを想像してもらうのも楽しいと思います。それが溝口家の生活の中での能への接し方、楽しみ方の総体を感じていただくことに繋がるのではないかと思っています。小面だけでなく、尉(じょう)というお爺さんの面も、いろいろなバリエーションがあります。表情や髭のかたち などがどのように違うか是非ご覧になって比べてみてください。」
最後に河野館長の思いを語っていただきました。
「岩崎彌之助が示してくれた明治の実業家の文化への愛着、愛惜の念を強調したいと思います。是非そういったことも、能面をご覧になりながら思いを馳せていただきたいですね。美術品・文化財を公開する、同時代の芸術家をサポートするといった彌之助の思想は、当時の実業家の中でも、社会を意識しているという観点から際立っているといえます。それは今に通じる大事な考え方ですし、昨今の実業家の方々にも学んでほしいことです。能面についていえば、当初はプライベートな性格だったものが、今年の公開で世の中に還元できる点も、三菱グループ三綱領の一つである”所期奉公”の精神に通ずるものです。150周年という三菱の歴史を振り返る年にふさわしい展覧会でしょう。」
静嘉堂文庫美術館は、2022年秋にギャラリーを丸の内の、昭和の建造物で初めて国の重要文化財指定を受けた明治生命館1階に移し、展示面積を1.5倍に広げる予定です。岩崎彌之助が静嘉堂のコレクションを公開したいと言っていた場所は、彌之助が当時買い取りを決断した丸の内をイメージしていたそうで、まさにその夢がかなうことになります。静嘉堂や能面の歴史を伺うと、この移転の意義もますます深く感じられます。
取材を終えて…
静嘉堂文庫は、ギャラリーである美術館の右隣にあります。1924年(大正13年)に建てられたイギリスの郊外住宅風の優雅な建物です。その二階には、上皇様ご夫妻をお迎えした由緒あるお部屋があります。インタビューは、その部屋で行われました。能面の話を通じて、静嘉堂や岩崎彌之助を理解する格好の機会となり、三菱の歴史の一端を知ることができました。静嘉堂の敷地内には彌之助と小彌太が眠る立派な廟堂もあります。能面の鑑賞後、廟堂に立ち寄って、明治の実業家の大志に思いを巡らしていただくのも楽しいのではないでしょうか。
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