未来を拓く一歩を支援
助成プロジェクト 成果レポート

【vol.26】修復とは、文化財とともに技術や素材も後世へ受け渡すこと吉川美穂氏/徳川美術館 学芸部 部長代理

Key Point

  • 徳川美術館は、三菱財団の文化財保存修復事業に対する助成金を利用し、江戸時代中期から尾張徳川家で演能に使われた能装束「白・納戸(なんど)細格子と茶・花色・黄・赤・白横縞腰替(こしがわり)熨斗目(のしめ)」を修復しました。
  • この能装束は、実際の使用に伴う傷みに加え、それを応急的に修復した跡がありました。また、染料による劣化も見られました。修復には作品の素材に極力近づけた生地や糸が用いられ、熟練の技術者が作業を実施。2年がかりの修復を終えた能装束は、再び美術館で展示できる状態となりました。
  • 絹織物は適切なタイミングで修復することにより、元々の風合いを残したまま延命できます。また、修復作業には、高度な技術や希少な素材を後世に伝承していくという重要な意義もあります。

大名家で実際に使われた貴重な能装束

1935(昭和10)年に開館した徳川美術館は、江戸時代の大名家・尾張徳川家に伝わる「大名道具」を収蔵・展示する私立美術館です。尾張徳川家は、徳川将軍家に連なる御三家の筆頭格。初代は徳川家康の9男・徳川義直(1600〜50年)で、尾張国や美濃国の一部を領地とし、総石高61万9500石の大大名でした。幕末を経て、1908(明治41)年に尾張徳川家の19代当主となったのが徳川義親(1886〜1976年)です。明治維新後、大名家の多くは所蔵品を売り立てによって手放しましたが、義親は先祖伝来の重宝を守っただけでなく、他の大名家の売り立て品を積極的に購入しました。そのおかげで貴重な大名道具は散逸を免れ、戦中戦後の混乱を乗り切って現在に至ります。

尾張徳川家邸宅の遺構、徳川園黒門(登録有形文化財)を入ると正面に美術館の入口が見える。
尾張徳川家邸宅の遺構、徳川園黒門(登録有形文化財)を入ると正面に美術館の入口が見える。

その貴重な収蔵品の一つが、日本の伝統芸能である能に用いられた能装束「白・納戸(なんど)細格子と茶・花色・黄・赤・白横縞腰替(こしがわり)熨斗目(のしめ)」です。この熨斗目は、三菱財団の文化財保存修復事業の一環として、2020年から22年の2年間で修復が行われました。修復した能装束について、徳川美術館の学芸員である吉川美穂氏に聞きました。吉川氏の専門分野は江戸時代の絵画と武家の女性の生活史。今回の修復事業では総括的な役割を担いました。

修復された「白・納戸細格子と茶・花色・黄・赤・白横縞腰替熨斗目」
修復された「白・納戸細格子と茶・花色・黄・赤・白横縞腰替熨斗目」

「徳川美術館には、大名が儀式や交際、戦への備えなどのために所持した『表道具(おもてどうぐ)』、婚礼調度や玩具などプライベートな『奥道具(おくどうぐ)』など、1万件あまりの貴重な品が収蔵されています。能楽は江戸時代に式楽であったため能装束は表道具に含まれます。現代では海外から賓客がいらしたときにクラシック音楽のコンサートを開催しますね。同じように、江戸時代は能楽を上演してお客様をもてなしました。また、正月などの祝儀や娯楽の目的でも演能が頻繁に行われました。つまり、大名は格式を保つために、能楽に用いる装束や能面を取り揃えておく必要があったのです」

吉川美穂氏
吉川美穂氏

江戸時代の人も魅了した華やかなデザイン

能楽は室町時代から650年以上にわたって受け継がれてきた伝統芸能。謡(うたい/歌とセリフ)と囃(はやし/楽器演奏)に合わせて演じられる歌舞劇「能」、笑いを通じて人間の普遍的なおかしさを描く科白劇「狂言」を合わせて能楽と呼びます。能にも狂言にも多数の演目があり、侍や庶民をはじめ人間の老若男女だけでなく、精霊や鬼、天女などさまざまな役柄があるため、演じるためには多くの装束が必要です。

「能役者は、何枚もの装束を重ね着します。熨斗目は素襖(すおう)や裃(かみしも)などの下に着るもので、身分の低い武士や里人の役を演じるときに使われました。室町時代は、袖のある着物を一番上に着ることが多かったので、熨斗目はちらりとしか見えませんでした。しかし後の時代になると上着が簡略化されて袖がなくなり、熨斗目がよく見えるようになってきます。そのため、人目を引くデザインの熨斗目が作られるようになりました」

徳川美術館では名古屋城内にあった能舞台が再現されており、当時の雰囲気を感じながら能装束が鑑賞できる。
徳川美術館では名古屋城内にあった能舞台が再現されており、当時の雰囲気を感じながら能装束が鑑賞できる。

今回修復した熨斗目(以下、細格子と横縞腰替熨斗目)は江戸時代中期、18世紀に作られたもの。観客の目に触れる襟元には細かくランダムな格子柄を施し、腰のあたりや袖には5色もの糸を用いたカラフルな縞柄を配するという、かなり凝ったデザインです。

袖の下部からがらりと切り替わるカラフルな横縞模様が映える。
袖の下部からがらりと切り替わるカラフルな横縞模様が映える。

「当館では能装束を120領ほど収蔵し、そのうち熨斗目は22領ありますが、そのなかでもこの熨斗目は非常に華やかで、他に類を見ないデザインです。収蔵品の中にはほとんど使われた形跡のない新品同様のものもありますが、この装束は襟元など、着用したときに傷みやすい部分の損傷が大きいことから、当時の人々も魅力を感じて頻繁に使ったのではと推察できます」

※領(りょう):着物や装束、鎧などを数えるのに用いる単位

絹織物の寿命を少しでも永らえるために

熨斗目は、平織(ひらおり)の生地から作られます。平織とは、経糸(たていと)と緯糸(よこいと/ぬき糸ともいう)を1本ずつ組み合わせて織るもので、柔らかな風合いが特徴です。「細格子と横縞腰替熨斗目」は、デザインに合わせて染め分けた経糸を使い、緯糸の色も変えながら織って、鮮やかな模様を織り出しています。

「修復前の『細格子と横縞腰替熨斗目』は長年の使用によって表地の経糸が切れ、とくに重みのかかる肩山や袖山では横方向に裂けてしまっていました。そのままでは美術館で展示するのはもとより、保存しておくだけでも劣化が進んでしまいます。それでも、きちんと修復すれば400年ほどといわれる絹織物の寿命をさらに50年、100年延ばすことができます。また、肩山が補強できれば美術館で衣桁に掛けて展示し、みなさまのお目にかけることができるだろうと考えました」

装束が損傷したもう一つの原因が、鉄媒染(てつばいせん)でした。鉄媒染とは、鉄分を含んだ媒染剤に生地や糸を浸して色付けする染色方法で、黒色や紺色、茶色などの暗色を発色させるために用いられます。黒豆を煮るときに鉄釘を入れると深みのある黒に煮上がるのと同じです。織物の場合、繊維の中に残った鉄成分が空気に触れると錆びて、他の色よりも早く劣化します。

修理前の損傷の状態。(提供:染技連)
修理前の損傷の状態。(提供:染技連)

 「『細格子と横縞腰替熨斗目』でも白糸などは比較的健全だったのですが、格子柄の部分に使われた紺色の糸が劣化し、一部は粉のようになっていました。さらに劣化が進めば紙などに貼り付けるしかありませんが、そうなると絹織物本来の柔らかさがなくなってしまいますから、すぐにでも修復する必要がありました」

針を通す場所を吟味しながら縫い進める

修復作業を担当したのは、染織品文化財の修理事業を手掛ける「株式会社 染技連(せんぎれん)」です。徳川美術館はこれまでにも染技連に収蔵品の修復を依頼したことがあり、その技術と経験を高く評価していたことから、「細格子と横縞腰替熨斗目」の修復も依頼することにしました。

まずはデジタルカメラで全体と各部分を撮影して記録するとともに、損傷部の状態を丁寧に確認。各部分の寸法も計測しました。次は、解体です。縫い合わせた状態のまま修復すると、健全な部分に負担がかかり、新たな損傷を生じる恐れがあるからです。さらに、ほこりやカビなどを除去するためにドライクリーニングを行いました。次の作業は、古い修理跡の除去です。実は「細格子と横縞腰替熨斗目」の肩山や袖山には、裏から生地を糊で貼り付け、太い糸で粗く縫いつけて修理した跡がありました。

「装束を使うために誰かが繕ったのかもしれません。また、美術館で展示するために簡易的に補修したのかもしれません。いずれにしても、古い修理跡そのものが装束に負担をかけていたため、修理に使われた裂(きれ)や糸、糊をすべて除去し、別途保存することにしました。また、装束についていたほこりの一部も保存しています。一見不要に思えるものも、将来の研究に役立つ可能性があるからです」

古い修理部分の除去作業。除去した裂や糸も大切に保存される。(提供:染技連)
古い修理部分の除去作業。除去した裂や糸も大切に保存される。(提供:染技連)

しわを伸ばして形を整えた後は、いよいよ修理作業です。修理に用いる裂は、元の生地に近い色の化学染料で染めて使用しました。縫い糸は絹の刺繍糸。現在市販されている絹糸は、蚕が改良されたため太く丈夫で、装束に使われたものに合いません。そこで、宮内庁でも飼育されている蚕「小石丸(こいしまる)」の糸を取り寄せ、手で撚って縫い糸を手作りしました。針は、今や日本に2人しかいない針職人が手作りした極細の縫い針です。こうした素材や道具を使い、染技連のベテラン職人が損傷部に合う裂を裏から当て、5〜6mm間隔で「渡し縫い」して綴じ付けました。

修理の様子。極細の縫い針で緻密な作業が行われる。(提供:染技連)
修理の様子。極細の縫い針で緻密な作業が行われる。(提供:染技連)

「修理後の状態をよく見ると、非常に細かく縫われていることがわかります。肩山のうち、紺色の糸が通っていたところは劣化が激しかったので、生地を崩さないように針を通す場所を慎重に探りながら縫い進めたと聞いています。また、糸が弱っているところは元の生地に負担をかけないように補強するなど、職人さんたちは非常に繊細な補修を施してくれました」

肩山付近の修理跡。遠目からはほとんど判別できない。
肩山付近の修理跡。遠目からはほとんど判別できない。

修理作業の後はすべてのパーツを仕立て直し、新たな裏地を縫い付けて、元の形に復元。修理後の状態を記録して作業が完了しました。修復作業は2020年度から22年度にかけて行われ、修復を終えた「細格子と横縞腰替熨斗目」は22年11月16日から1ヶ月間、徳川美術館の名品コレクション展示室で公開されました。

文化財だけでなく、技術や素材も伝承する

徳川美術館では、貴重な文化財を保管するだけでなく、展示して多くの人に見てもらうことに重きを置いています。

「文化財に限らず、実際にものを見ることによって感じたり、理解できたりすることは多いと思います。当館を設立した尾張徳川家19代・義親は、『物が残ってこそ家の歴史が伝わる。物がなくなれば大名家の歴史も失われてしまう』と考え、大名道具を収集、保管しました。『自分には美術はわからない』と言いながら、選り好みせずに一括して残してくれたおかげで現在、私たちは江戸時代の大名の生活や当時の芸術、技術を学ぶことができるのです」

三菱財団の助成金は、染技連に所属する職人の作業料、特別あつらえの裂や糸、針などの費用に充てられました。助成金によって文化財の修復を行うことには、他にも意義があると吉川氏は言います。

「『細格子と横縞腰替熨斗目』を展示する際には、三菱財団の助成金によって修復したことを明記します。それによって文化財を保存・維持するのには資金が必要だということを、一般の方にも広く知っていただくきっかけになるのです。公的な助成金は国宝や重要文化財などの指定品の修復に使われることが多く、『細格子と横縞腰替熨斗目』のような未指定の作品に使われることはめったにありません。そうした意味でも、三菱財団の助成金は大変ありがたく思っています」

修復の意義は、文化財の命を永らえるだけにとどまりません。

「修復を行えば、それを手掛ける技術者の技を伝承することができます。私たち学芸員としても、修復をお願いするときにはどんな点に注意し、技術者とどのようにコミュニケーションを取ればいいか、そのノウハウを実地で学べるとともに、作品への理解を深める貴重な機会です。ほかに重要なのは、今回使用した小石丸の糸や縫い針のような伝統的な素材や道具を継続的に使うこと。このように希少なものは、使う人がいなくなれば作られなくなり、いずれ技術も途絶えてしまうかもしれませんから」

江戸時代、尾張徳川家で能が上演された際、誰かがこの熨斗目を身につけ、藩主や賓客の前で舞や謡を披露しました。その痕跡が残る貴重な能装束が、高い技術をもった職人の手でよみがえり、私たちに当時の様子を伝えてくれます。「ものがあってこそ、歴史が伝わる」という徳川義親の言葉通り、私たちは後世に文化財とそれを守る志を伝えていかなければなりません。

吉川氏(写真左)と三菱財団 七條氏(写真右)。
吉川氏(写真左)と三菱財団 七條氏(写真右)。

プロフィール

徳川美術館

江戸時代の大名家・尾張徳川家に伝えられた重宝、いわゆる「大名道具」を収蔵する美術館です。徳川義親によって1931(昭和6)年に設立された公益財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館で、1935(昭和10)年に開館しました。収蔵品は徳川家康の遺品をはじめ、初代徳川義直以降の尾張徳川家の歴代当主やその家族らの遺愛品を中心に、総数およそ1万件余りにおよびます。明治維新や第二次世界大戦の戦災などによって、多くの大名家の伝来品が散逸してしまった今日、徳川美術館の収蔵品は大名家のコレクションとして非常に貴重な存在となっています。