みにきて! みつびし
高知・安芸 後編:海運王への道はここから始まった ~彌太郎生誕の地~
岩崎彌太郎生家
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土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線安芸駅から車で10分ほど。かつて井ノ口村と呼ばれた場所に、彌太郎の生家があります。生家そばの駐車スペースに到着すると、まず出迎えてくれるのは……
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貫禄たっぷりの岩崎彌太郎先生像です! この銅像の写真を見たことがある方も多いと思います。私もこれまでに何度も見ていたので、ついに本物が目の前に!とさっそく気分が盛り上がります。
この像は彌太郎生誕150周年にあたる1986年に、高知を代表する銅像作家・浜田浩造によって製作され、2015年に現在の場所に移設されました。大きく右手を広げておさめるようなポーズは「世の中の荒波をこの手で受け止め、自分が日本、世界をかえていく」という意味が込められているそうで、井ノ口村から大海へと飛び立った彌太郎の力強さが表れていますね。
台座には四面16枚にわたり、生家をはじめ長崎港、三菱の紋、三菱一号館など、岩崎家や三菱にまつわるさまざまなエピソードが彫られている。
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足元から見上げると、はるか遠くを見据えながらも目の前に迫る波を受け止めようとする逞しさがひしひしと伝わる。
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そしてこの彌太郎像の右手の先に、彌太郎、弟の彌之助、そして長男・久彌の3人が生まれた生家が静かに佇んでいます。
門をくぐり、庭を通って生家へ。書を小脇に塾から帰宅し、日本列島を模した石組みを意気揚々と眺める――そんな若き彌太郎の気分でどうぞ。(当時の屋敷の敷地は記念碑の手前あたりまでだったとのこと)
この家は彌太郎の曽祖父によって1795年に北より移築されました。そのころまで岩崎家は「郷士」(ごうし)の身分でしたが、曽祖父の代に郷士株を売り「地下浪人」(じげろうにん。郷士の資格を失った家系の者)といわれる立場になりました。ただし岩崎家は40年以上郷士職であったため、名字帯刀は引き続き許されていました。そのためこの家は、典型的な土佐の民家の構えである一方で、玄関には武家屋敷の様式である式台(しきだい)がついています。
現在は竹垣で囲われた庭には、大きな石が並んでいます。これは十代の彌太郎が作ったもので、南側から見ると日本列島を模して並べられています。彌太郎少年は農作業から帰るとこの石を眺め、「日本列島は我が庭の内にあり」と語ったと言われています。さすが未来の海運王はスケールが大きい!
庭に並べられた日本列島を模した石組み。彌太郎は長じてからも庭づくりを「唯一の趣味」と語り、清澄庭園には全国から名石を集めた。そのルーツはこの庭かもしれない。
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生家の隣には大きな記念碑が立つ。背後に写る2棟の蔵を含め、彌太郎生家敷地内の7件の建造物が国登録有形文化財に登録されている。
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屋根はもともとは藁葺きでしたが1980年の補修で茅葺きに変更され、以降、職人による定期的な補修をおこない、現在も美しい屋根を保っています。また、2015年には耐震補強工事も施され、当時の面影を残しながらも未来へ残すべく大切に保存されています。
生家の隣に立つ「岩崎彌太郎生誕之地」の記念碑は1963年に三菱グループによって建造されたもので、背面の彌太郎の功績を称える文章とあわせ、文学博士で三菱第四代社長・小彌太の師でもあった諸橋轍次の書が刻まれています。
土間に入ると囲炉裏やかまどの跡が残り、ここが生活の場であったことがありありと伝わってきます。前編でご紹介した「岩崎開き」の綿作地で収穫した綿花を彌太郎の母・美和が持ち帰り、この土間で機織りしていたのではないかと言われています。
敷地内に建てられた2棟の蔵のうち、「西蔵(にしぐら)」と呼ばれる蔵の鬼瓦には岩崎家の家紋・三階菱が刻まれている。
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東の蔵には鬼瓦の家紋に加え、おなじみスリーダイヤのマークも。いずれの蔵も、彌太郎没後に建造されたもの。
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彌太郎が最初にこの家を出て、江戸遊学へと旅立ったのは1854年、満19歳のときでした。前年には浦賀にペリーが来航し、日本がまさに激動の時代を迎えつつあった頃です。庭に日本列島を模した石を並べた少年は、早く自分もその世界へ飛び立ちたいと願っていたはずで、江戸に向かうことが決まったときの喜びはいかほどだったでしょう。
その時の彌太郎少年が取った行動が逸話として残るのが星(ほし)神社です。星神社は彌太郎の家から徒歩で1時間ほどの、妙見山(みょうけんやま)448m山頂付近にある小さな神社です。この山は彌太郎少年にとって、ある時は友人たちと駆け回り、ある時は神社の堂内に書物を持ち込んでひとり勉学に励むなどした大切な思い出の場所でした。江戸遊学が決まった際、彌太郎はそんな深い思い入れのある星神社を訪れて、自らを奮い立たせるために、「吾れ、志を得ずんば再びこの山に登らず」と門扉に大書したそうです。大胆、かつ彌太郎らしいエピソードに、大きな喜びと大志を感じますね!
現在の星神社拝殿。氏子たちの寄付により近年改築されているが、改築前に設置されていた彌太郎の決意を模した書が書かれていた扉は、今も拝殿内に残されている。(※通常は格子扉が閉まっています)
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妙見山からは彌太郎生家を眺めることができる(赤丸が生家と蔵、青丸は彌太郎像)。妙見山は彌太郎のホームグラウンド。彌太郎もこの山に登って我が家を見たはず。
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星神社は現在も地域の方たちにとって大切な神社で、そして、この地から世界へ羽ばたいた彌太郎の志を継ぐべく、近隣にある井ノ口小学校の児童を中心に、親子や地域の若者たちが毎年元旦の早朝に星神社への初詣をし、東の稜線からの初日の出を拝むそうです。
満19歳で安芸を出た後も、彌太郎はさまざまな事情で井ノ口村に戻ることを繰り返し、結局満32歳まで生家で暮らしました。彌太郎が住んでいた当時の敷地は現在ほど広くはなく(ほぼ生家の幅ぐらいだったそうです)、もっと小ぢんまりとして見えたと思われます。また、長男の久彌が誕生したころは、彌太郎とは16歳離れた弟の彌之助もまだ十代の少年。きっとひとつ屋根の下、貧しくとも家族みんなで助け合って暮らした、かけがえのない思い出の詰まった家だったのだろうなと、なんだかあたたかい気持ちになりました。
安芸市はいたるところに彌太郎の足跡と志が残るまちでした。東京で感じる「三菱創業者・岩崎彌太郎」の顔とは少し違う、これから広い世界へと飛び立とうとする若者の熱い思いに肌で触れることができます。実際に訪れなければわからないこの空気を味わいに、ぜひ安芸をみにきてください!
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こんにちは! 事務局のカラットです。高知県安芸市へ三菱創業者・岩崎彌太郎のルーツを訪ねる旅、後編をお届けします。前回は彌太郎の人物や功績を紹介する施設「安芸観光情報センター ~彌太郎こころざし社中」と、岩崎家の「社会のために」という志が垣間見えるスポットをご紹介しました。今回訪問するのはさらなる原点・彌太郎が誕生した生家です。さあ、ここではどんな彌太郎像に会えるでしょうか?