トップインタビュー

2025.01.09

ENEOSホールディングス

和歌山工場長になった40代、部下はほぼ全員年上、関係者は1,000人超!
鍛えられたマネジメント力

三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第20回はENEOSホールディングス社長の宮田 知秀氏に学生時代やキャリアの話、社長としての会社の目標などについて聞いた。

平日は仕事に集中し、休日はゴルフでリフレッシュ。車とバイクは大好き。ただし趣味のサーキット走行は現在は社長ゆえに自粛。納豆は苦手。

ENEOSホールディングス代表取締役社長執行役員
宮田 知秀(みやた・ともひで)

1965年大阪府生まれ。1990年東京工業大学大学院原子力工学修士課程修了後、東燃入社。
2008年執行役員和歌山工場長、2012年常務取締役川崎工場長、2016年専務取締役(精製・物流・製造技術・中央研究所・電力事業委嘱)、2017年JXTGエネルギー取締役常務執行役員製造本部副本部長、2022年ENEOSホールディングス・ENEOS代表取締役副社長執行役員社長補佐、2024年4月より現職。

――大阪府のご出身ですが、どんな子ども時代を過ごされましたか?

宮田東大阪市で生まれ、中学の途中まで八尾市で育ちました。小学生の頃から野球をやっていましたが、下の世代には清原和博選手や桑田真澄選手がいるような野球の盛んな地域でした。中学1年生になってからは親の転勤で、千葉県の柏市に移りました。高校は東葛飾高校に進みました。進学校でしたが、大学受験のために熱心に指導するわけでもない。とても自由な校風で、制服はなく、髪型もとやかく言われない学校でした。高校時代は楽しく、当時の友人とは今も付き合いがあります。

――大学は、現役で東京工業大学に進まれました。理系科目が得意だったのですか。

宮田古文・漢文が苦手だったのです。歴史を勉強するのもあまり好きではなかった。苦手な科目を排除していったら、理系科目が残ったというかたちです。大学時代は体育会ボート部に入りました。そこで鍛えられたこともあり、今でもゴルフは通常より飛ぶ方かもしれません(笑)。その一方で、大学院まで原子力工学を勉強していました。当時はエネルギーに興味があり、原子力もこれからという時代でした。担当教授は高速増殖原型炉もんじゅを研究しており、私も原子力関係の企業に就職するつもりでした。世の中はバブルの時期で、どこでもどうぞという感じ。しかし結局、原子力関連の企業とは縁がなく、エネルギー分野のなかでも石油業界に興味を持ちました。

学生時代の宮田社長

1994年にタービン事故に遭遇
復旧までの大変な日々

――東燃入社後は、どちらに配属されたのですか。

宮田燃料電池の研究所に配属されました。当時、会社は多額の資金を燃料電池の研究開発に投じていました。私が入ったのは、燃料電池がちょうど下火になる頃。結局、そのときのメンバーのうち何人かは、その後自動車メーカーに移り、燃料電池を完成させています。私達が研究したことは、現在のFCV(燃料電池自動車)にかなり生かされています。
東燃自体はエンジニアの会社だったという印象です。当時は石油メジャーの米国・エクソン系の石油精製企業でしたが、エンジニアリング(製油所の操業・運営)については日本人が中心となって行っていました。

――若い頃に苦労された思い出はありますか。

宮田入社後に配属された研究所で1年半従事したあと、川崎工場に配属されました。当時、川崎には東洋一のFCC(流動接触分解装置)という装置を有していました。重油留分を多く含む重質原油を高温の触媒によって分解し、おもにガソリンを製造する装置で、その稼働は会社の収益に大きく貢献します。ところが、1994年に同工場でFCCのタービンが吹き飛び、高濃度COガスが漏れ、爆発炎上しました。大変な事故で、マスコミも集まりましたが、周囲にはガスが充満しており、タバコを吸われたら、それで爆発するような緊迫した状況でした。幸い死傷者はゼロでしたが、事故後、技術系の私はFCCを復旧させるまで大変な日々を過ごしました。配管だけで100トンくらいあったので、よく復旧させることができたと思います。

石油メジャーはプロジェクト遂行能力が高い
まさにベストプラクティスの塊だった

――その後はどんな仕事をされたのですか。

宮田1999年にエクソンモービルが誕生したことを受け、2000年に東燃とゼネラル石油が合併し東燃ゼネラル石油となり、上司が外国人になりました。会社も大きく変わり、50歳以上の部長クラスはほとんどいなくなり、代わりに若手や外国人が登用されました。
2002年にエクソンモービルのResearch & Engineeringにアジア太平洋地域エンジニアリングオフィスプロジェクトサービス部マネージャーとして出向しました。ただ、アジアの拠点は川崎とシンガポールだったので、勤務地はそのまま川崎でした。
エクソンモービルはグローバルなプラクティスをたくさん持っています。まさにベストプラクティスの塊です。それが日本にも入ってきたのです。プロジェクト遂行能力はとくに高く、当時のエクソンモービルCEOは第1次トランプ政権で国務長官を務めたレックス・ティラーソンでしたが、絶対失敗しないと豪語していました。実際、コストコントロール、プロジェクトマネジメントなどに長けており、スケジュールにも遅れなし。何事にも損失を出さないことやSHE(Safety, Health & Environment)も徹底していました。

――やはり石油メジャーはすごいですね。

宮田エクソンモービルは理系人材が大半を占める会社です。上層部にもエンジニア出身者が多いのです。彼らはパーソナルディベロップメントもすごかったですね。人的資本経営なんて一言も言っていないのですが、人材の育て方や公平性には目を見張るものがありました。日本人であろうがアメリカ人であろうが関係ない。扱いは非常に公平です。どんな経験をさせて、どうやって育てるか。人材育成もマネジメント、エキスパート、ローカルと分けていました。日本の会社では転勤すれば単身赴任もあり得ますが、彼らはそんなことは絶対にさせません。必ず妻子帯同で生活のケアもしっかり行います。グローバルで人を育てるというのはこういうことなのかと本当に勉強になりました。

フリーハンドを減らし
共通したマネジメントシステムを徹底

――2008年には43歳で和歌山工場長として執行役員に就任されています。お若いですね。

宮田エクソンモービルでは年齢は関係ありません。執行役員になる前の40歳のときに和歌山工場長になったのですが、課長以上の部下はほぼ全員年上でした。従業員は関係会社を含めると1,000人超に達します。そのなかでマネジメントを経験したことは今に役立っています。2012年には常務取締役川崎工場長になりましたが、仕事は大変で、まさに2足、3足のワラジをはくような感じでした。川崎工場長をやりながらほかの工場も見なければならないうえ、当時はエクソンモービルが日本から撤退し、東燃ゼネラル石油の株式を自社で買い戻す時期で社内的にも混乱していました。とにかく時間がなかったという感覚が記憶に残っています。
10年以上経営を任されてきたので、鍛えられたと思います。

――それにしてもキャリア的には日本の会社に入って、石油メジャー流のマネジメントを学び、また日本の会社に戻ってというかたちですね。

宮田確かに自分のなかでは会社を何社も変わったというイメージですね。2017年にはJXエネルギーと東燃ゼネラル石油が合併し、JXTGエネルギーとなりました。製造部門を担当することになりましたが、国内系と外資系の二つのやり方が混在するなかで、各所でマネジメントをシステマティックに進めるようにしました。頭を使うのは難しいところだけにして、フリーハンドを減らすようにしました。国内外のどこであろうが、共通したシステムで動くことを徹底しました。

これまでの延長線上に
私達の未来はない

――社長に就任されて、今後どんな会社にしていきたいとお考えですか。

宮田石油はもともと地球が何億年もかけてつくったエネルギーであり、それを利用して長年ビジネスを行ってきました。しかし、これからはローカーボン(低炭素)化、脱炭素化を目指して技術革新しなければなりません。最終的に脱炭素化を達成しなければなりませんが、そのためにも当面はローカーボンソリューションとしてLNG(液化天然ガス)やSAF(持続可能な航空燃料)、CCS(二酸化炭素回収・貯留技術)などを進める必要があります。
日本は世界のなかでも脱炭素化に真面目に取り組んでおり、私達はそのど真ん中にいます。これまでも私達はイノベーションを行ってきましたが、これからさらに違う次元でのイノベーションを起こしていくためにも、私達は変化していかなければならないと考えています。これまでの延長線上には私達の未来はないのです。新しい技術と新しいサプライチェーンを持って、グローバルに新たな事業を進めていかなければなりません。今はそのためのさまざまな種蒔きを行い、実行し始めている状況です。

――最後に読者へのメッセージをお願いします。

宮田当社はエネルギーや素材、そしてローカーボンソリューションに向けた取り組みなど、多岐にわたる事業を行っていることから、まったく意識をしなくても自然と三菱グループの企業の方々ともお仕事でつながっています。これからもさまざまな取り組みが進んでいくなかで、三菱グループの方々にはさらにお世話になるだろうと考えており、石油のみならず、さまざまな分野でご一緒していきたいと思っています。

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