三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第26回はUBE三菱セメント社長の平野 和人氏に学生時代やキャリアの話、社長としての会社の目標などについて聞いた。

健康のため、時間のあるときにひとりでゴルフに行って、仕事にかかわりのない方とプレーを楽しむ。お酒は何でも。とくにウォッカ、泡盛が好き。好きな食べ物はステーキ。最近読んだ本は『メルケル 世界一の宰相』。
UBE三菱セメント代表取締役社長 CEO
平野 和人(ひらの・かずと)
1961年神奈川県生まれ。1985年上智大学法学部卒。同年4月三菱鉱業セメント(現三菱マテリアル)入社。2012年宇部三菱セメント営業企画部長、2015年同取締役東京支店長、2018年三菱マテリアル執行役員セメント事業カンパニーバイスプレジデント兼海外部長、2020年宇部三菱セメント代表取締役副社長、2021年三菱マテリアル執行役常務セメント事業カンパニープレジデント、2022年UBE三菱セメント代表取締役副社長、2025年4月より現職。
――社長に就任されて、心境の変化はありますか。
平野当社は三菱マテリアルと宇部興産(現UBE)のセメント部門が統合してできた会社となります。統合にあたり、両事業部の責任者がしばらくは二人三脚でということで、宇部興産出身者が社長、私が副社長として経営にあたってきました。統合から3年経って融和も進んできたタイミングで、今回業務執行体制を一本化することになりました。これまでも経営を担当してきましたが、トップとなってより責任も重くなったと感じています。
――お生まれは神奈川県ですね。
平野相模原の出身です。父親は自衛隊員で、各地を転々としていました。幼い頃は父親がよく同僚や部下を自宅に連れてきて、私と弟は遊んでもらっていました。遊ぶといっても、自衛隊員ですからおもに体育会系の遊び。プロレスごっこや柔道をやって遊んでいました。私がプロレス技をかけて、父が酒を飲みながら「すまんなぁ」と声をかけると、技をかけられている同僚や部下の方は「全然大丈夫です!」と返す感じ(笑)。とにかく皆さん強くてやさしい。子ども心に「すごいなあ、こんな人達が日本を守ってくれているんだ」と思っていました。

オーボエを演奏する平野社長。
――中学生、高校生の頃はどう過ごされましたか。
平野地元の中学校に通って、音楽が好きで楽器をいじっていました。その頃始めたのがオーボエ。ちなみに世界でいちばん難しい楽器はホルンとオーボエだといわれています。オーボエのリードは南フランス産の葦を自分で削って作るのですが、お金も手間もかかって大変だった思い出があります。
高校は地元の県立高校に進みました。バンカラな校風で、応援団による応援指導が一年生全員にありました。日常では麻雀が好きで、高校生活ではダラダラと麻雀ばかりしており、阿佐田 哲也さんの『麻雀放浪記』を愛読していました。
今思うと麻雀は経営と少し似ているところがあります。経営は決断を迫られたとき、正解がわからないなかでも確率的に「確からしい方向」へ持っていく必要があります。そのためにはある程度、自分の経験に拠るところがあります。経験と知識は人間のデータベースです。だからこそ、若い人にはインプットすべきは仕事の経験と知識だと話しています。AIと同様、多くのインプットがなければ、いいアウトプットは生まれないと考えています。
――大学は上智大学法学部に進まれます。
平野大学では管弦楽部に入ってオーボエを本格的にやるようになりました。お金がないので、昼は部活、夜は催事会場設営のバイトなどをしていました。当時大学には金田一 春彦先生、緒方 貞子先生、佐藤 功先生など著名な先生方がおられ、授業は全般的に厳しくも素晴らしいものでありました。
当時周囲の友人達には帰国子女なども多く非常に優秀で、そういった友人達につられるように人生でいちばん勉強した時期かもしれません。そう思えるくらい、とても充実した大学生活を送ることができました。
初任地は名古屋支店。その後に本社役員を怒らせ、地方勤務が続くことに

――なぜ三菱鉱業セメントを志望されたのですか。
平野就職の時期になると、大学の先輩がリクルーターとして大学にやってきます。そのとき三菱鉱業セメントの方がスマートでとても印象がよかったのです。先輩から上の人に会ってほしいと言われ、面接も順調に進んで内定をいただきました。ちなみにその先輩も執行役常務になり、ある時期三菱マテリアル執行役会メンバーの8人中2人が同じゼミ出身者だったこともあります。
――最初に配属されたのはどちらですか。
平野1年間の実習のあと希望通り営業担当で名古屋支店に配属されました。名古屋支店には計7年間いましたが、いろいろな仕事を担当させてもらいました。社内は何でも言えるような自由な雰囲気でした。しかし、言い過ぎてしまって、当時の本社役員の方の意向に沿わないことを強く主張したため、九州(福岡支店)に異動することになりました。
事前に直属の上司からは「どうも本社ではなく地方に異動させられるらしいぞ」と言われました。ウソだろうと思っていたら、本当に「九州で頭を冷やしてきなさい」と本社の役員の方に直接言われました。結局九州支店では同じ課で13年間も勤めることになりました。ただ、九州は素晴らしい勤務地で、仕事もプライベートも楽しく、20年間地方で本当にやり甲斐のある仕事ができました。

――当時を振り返って、仕事に役立っていることはありますか。
平野上司が任せてくれて、かつ多岐にわたるオールラウンドな仕事ができたことです。中小企業の経営者の方々を相手に、販売だけでなく、担当会社が経営的にいい会社であってもらえるように経営支援などもやっていました。
苦労した思い出深い仕事は、ある不振企業のターンアラウンド(事業再生)の支援を任されたことです。その会社の方と3人で毎日議論し、資産の整理や販売などを見直し、会社を復活させました。本当にいい会社に生まれ変わったのですが、当時ともに苦労した方がその後、後継者として社長になり東京にわざわざ訪ねてきてくださり、ともに祝杯をあげました。本当にうれしかったですね。
いちばんの苦労は統合実務
本当に死ぬ気でやりました
――その後、東京に戻られました。
平野営業を担当したのち、社長室長をすることになりました。地方では他社の経営支援でしたが、今度は自分事として経営を体験することになりました。その後、営業企画部長、グループ会社部長、東京支店長となりましたが、とりわけ苦労したのは急に海外部長を任されたときです。
就任直後の最初の打ち合わせの際、知見が乏しく、悩んで即断できないでいると、当時の経営トップから「就任した以上はその日から100%以上の力を出すのが当然だろ」と叱責されました。いろいろな意味で苦労しましたね。英語も改めて勉強しました。
でも、いちばんの苦労は当社の統合実務です。今回の統合はお互いの事業の半分を買って、半分を売るというディールでもあったのですが、何より立派な会社をつくることを目指し、本当に死ぬ気でやりました。

――完全統合は2022年でした。
平野セメント産業は世界では成長産業といわれていますが、日本国内のセメント需要は年々減少傾向にあります。本来、セメントはインフラを支えるものであり、国家のバロメーターのひとつでもあります。ただ、現実を見据えると今後国内で生き残っていくためには、完全統合しかありませんでした。統合で心掛けたことは、両社のバランスよりも両社の垣根を消すことです。もちろんお互いに出身会社には郷愁がありますが、とにかく会社を融和させていくことに努めました。
――今後の展望についてはどうでしょうか。
平野やはり日本のセメント産業を背負う会社にしていきたいと考えています。それと同時に海外事業も強化していかなければなりません。海外にはチャンスがあります。海外要員の育成も強化し、もっと世界で存在感を示せるような会社にしていきたいと思っています。
何でもコミュニケーションできる
オープンで正直な会社をつくっていきたい

――会社として目指すものは何でしょうか。
平野今、そしてこれからも大事にしなければならないものは、企業理念です。そのミッションは「最高の品質を最高の技術とサービスで提供し、地球の未来を支えつづける。」です。これを実現するためにも、常に意識しなければならないのは、三つのバリューです。誠意・真心をもって事にあたり、物事の本質を深く追求する「誠実さと真摯さ」、多様な個を尊重し、英知を融合させ、グループで最高の力を発揮する「個の融合とグループ力」、前例にとらわれることなく果敢に挑戦し、世のなかの求めに応え革新しつづける「挑戦と変革」の三つを掲げています。
これらの意味を私は社内で何度も繰り返し伝えています。なぜなら社員には言葉ではなく、その意味を理解してほしいからです。もし仕事がうまくいかなかったり、壁にぶち当たったりしたときは、常にこの原点に立ち返ってほしい。そのうえで、何でもコミュニケーションできるオープンで正直な会社をつくっていきたい。そう思っています。
――最後にメッセージをお願いします。
平野私は三菱鉱業セメントの出身ですが、入社当時はまだ炭鉱が残っていました。軍艦島にも行ってきましたが、それは当社の歴史のひとつでもあります。当社は旧三菱鉱業の歴史、そして同じ様な変遷を経てきた旧宇部興産の歴史、その両社のDNAを引き継いでいると考えています。これからも両社の歴史を背負っていく覚悟、三菱グループの一員であるという矜持を持って、経営にあたっていきたいと考えています。