三菱人物伝

雲がゆき雲がひらけて ―岩崎久彌物語vol.12 末広農場の日々(最終回)

戦後、財閥解体に続き、財閥家族に過酷な財産税が課された。久彌は住みなれた茅町本邸を出、成田近くの末広農場に移り住んだ。三菱の総帥を退いてからは、小岩井農場とともに最も多くの時間を過ごしたところで、亡き寧子夫人の思い出も多い。

GHQ(連合国総司令部)や新しい日本政府の方針に言いたいことが山ほどあったであろう。しかし久彌はすべてをのみ込んで、淡々と日々を送った。大好きな馬や牛、鶏や豚もいる。農場員と動物談議を楽しみ、時にはお気に入りの馬に話かけた。

親子二代にわたり末広農場を手伝い、近くで自ら競馬馬の育成やリハビリをやっている出羽牧場代表取締役の出羽龍雄は言う。

「農地解放で、岩崎家は6ヘクタールだけを残してあとはすべて手放されました。その際久彌様は、農民たちに実に木目細かくお心を配られた、と父から聞いております」

東京では第一生命のビルにGHQが置かれ、変革の嵐が吹き荒れていた。丸の内の半数のビルは接収された。三菱商事には解散命令が下り百数十社に細分化された。商号の使用を制限された三菱銀行は千代田銀行に、三菱信託は朝日信託銀行になった。三菱重工は東日本・中日本・西日本重工業の3社に分割された。三菱化成は戦時合併以前の3社に戻った。

町には失業者があふれ、戦災で親を失った浮浪児たちは駅の地下道に寝泊まりした。進駐した米兵と日本女性の間に多くの混血児が生まれ、その子たちの生きる場所がなかった。

そんななかで混血の孤児たちの救済に立ち上がった女性がいた。外交官澤田廉三の夫人・美喜。久彌の長女である。美喜はさまざまな困難と中傷の中を奔走し、大磯のかつての岩崎家別邸にエリザベス・サンダース・ホームを開設する。美喜の思いやりとひたむきさはまさに久彌譲りであった。挫折しそうになると美喜ははるばる末広農場に父を訪ね、アドバイスを求めた。久彌はすでに財政的な支援はできなくなっていたが、夜遅くまで相談にのった。

美喜は多くの人々の善意に支えられ、700人以上の孤児を育てあげた。成長した孤児たちは、国内のみならず「七つの海を越え」、米国やブラジルなどで立派な社会人になっているが、今でも亡き美喜を「ママ」と呼んで慕っている。

昭和30年没、享年90

朝鮮動乱をきっかけに日本経済は立ち直っていった。1952(昭和27)年には対日講和条約が発効し、三菱の商号も使用制限が解除された。三菱商事は大合同を果たした。三菱各社は企業グループという新しい形で発展しはじめた。

久彌らしく、大上段に構えた訓辞は一切、残さなかった。ただ、第一次大戦勃発で世間が投機ブームに沸いていたとき、浮き足立つ社員に与えた訓示がある。それはそのまま久彌の生きざまであり経営哲学だった。

「健全な国家を支えるのは国力であり、国力の充実は実業に依る。それゆえ実業に従事する者の責任は重い。…実業の根底にあるべきものは各人の高潔な人格と公正な行動だということを忘れてはならない…」

末広農場の自然の中で、はるかに三菱の再興を見守った晩年の久彌だったが、昭和30年の冬、静かに90年の生涯を終えた。奇しくも四代目社長小彌太の命日だった。

文・三菱史料館 成田 誠一 川口 俊彦

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年4月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。