0歳1865年(慶応元年)
土佐国安芸郡井ノ口村に生まれる
三菱三代目社長岩崎久彌。初代彌太郎のもとに生まれ、叔父・彌之助の後を継いで社長を20年余つとめ、第一次大戦の軍需景気のさなかに彌之助の子・小彌太にその座を譲り、その小彌太をも看取った。わが国の近代化の中で90年の長きを生きた久彌は、何を考え、何をしたのか…。
岩崎久彌は慶応元(1865)年、土佐国安芸郡井ノ口村に岩崎彌太郎の長男として生まれました。幼年時代を土佐で送り東京に移った後、10歳で慶應義塾へ入学。13歳まで福沢諭吉の薫陶を直接受けた久彌はその後彌太郎が開設した三菱商業学校で学び、さらに米国ペンジルバニア大学へと留学しました。帰国後、三菱社の副社長を経て明治27(1894)年、29歳の若さで三菱合資会社の社長に就任すると銀行部、売炭部、鉱山部を新たに設置。造船業においてはドック拡張や発電設備を新設し社長就任後わずか3年の間に長崎造船所の近代化を推進してゆきました。明治40年代になると、すでに一部で採用しはじめていた事業ごとの独立採算制の範囲をさらに拡大。優秀な専門家や経営幹部を抜擢し大幅に権限を委譲するなど近代的なマネジメント・システムを取り入れることで三菱を日本最強の企業集団へと導きました。
第一次世界大戦中の大正5(1916)年、経済が未曽有の活況となるなか久彌は誰にも相談することなく22年務めた三菱合資会社社長の座を従弟・小彌太に譲り、自らは岩崎家の事業としてかねてより心惹かれていた農牧に力を注ぎます。叔父・彌之助らが開いた小岩井農場では育牛や農作に取り組み、海外でもコーヒー栽培を行うなど農牧事業の夢を追い続けた後半生。第二次世界大戦後は、自ら名付けた千葉県の末広農場に83歳で居を移し、昭和30(1955)年90歳で静かに生涯を閉じました。
1865〜1886年
0歳1865年(慶応元年)
三菱三代目社長岩崎久彌。初代彌太郎のもとに生まれ、叔父・彌之助の後を継いで社長を20年余つとめ、第一次大戦の軍需景気のさなかに彌之助の子・小彌太にその座を譲り、その小彌太をも看取った。わが国の近代化の中で90年の長きを生きた久彌は、何を考え、何をしたのか…。
9歳1875年(明治8年)
12歳1878年(明治11年)
19歳1885年(明治18年)
1886〜1891年
20歳1886年(明治19年)
22歳1888年(明治21年)
三菱商会の進出にあわせ、土佐・井ノ口村から一家とともに大阪、東京へと移動。慶應義塾、三菱商業学校を経て、米国ペンシルヴァニア大学のウォートン・スクールに進んで財政学などを学んだ。祖母・美和の教えを最も色濃く受け継ぎ、若いころから決して奢らず、他者への配慮を忘れなかった。
24歳1890年(明治23年)
1891〜1893年
26歳1891年(明治24年)
1893〜1916年
28歳1893年(明治26年)
29歳1894年(明治27年)
30歳1895年(明治28年)
28歳の若さで三菱合資会社の社長に就任した久彌は日本の近代産業の勃興と発展の時期だった明治から大正にかけての20余年に事業の多角化をすすめ各部への権限の移譲を断行。ワンマン・カンパニー的経営体質から近代的マネジメント・システムへの脱皮を実現した。
久彌の社長在任期間はまさに丸の内オフィス街建設の時期でもあった。社長就任の翌年、ジョサイア・コンドル設計による三菱第1号館が竣工。以後、第2号館、第3号館と続き、ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦」と呼ばれるようになった。
31歳1896年(明治29年)
現在「都立旧岩崎邸庭園」として公開されている茅町本邸。ジョサイア・コンドルの設計によるイギリスジャコビアン様式を基調にし、久彌が留学時代に親しんだペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージも取り入れた木造の建物に、久彌は家族とともに50年にわたり暮らした。
政府の払い下げを受け、三菱は、明治14年の高島炭坑を手始めに次々に炭坑や鉱山を買収。久彌は更に買い進め、生野鉱山、佐渡鉱山、大阪製煉所の一括落札に成功。また、長崎造船所の常陸丸建造を成し遂げ、海から陸へと事業展開を大きく広げた。
32歳1897年(明治30年)
人を信頼し人に信頼された久彌は優秀な専門家や経営幹部を抜擢し事業を任せた。中でも荘田平五郎と豊川良平の存在は大きく、荘田は日本郵船ほか多数の企業創立に参画、長崎造船所の支配人、東京海上、明治生命の会長などをつとめ、豊川は政財界に人の輪を広げて久彌を支えた。
34歳1899年(明治32年)
40歳1905年(明治38年)
41歳1906年(明治39年)
42歳1907年(明治40年)
43歳1908年(明治41年)
46歳1911年(明治44年)
今はないがかつて久彌が情熱を注いだ事業がいくつもある。現在の東北本線にあたる上野―青森間の鉄道建設を始め、山陽鉄道、九州鉄道、筑豊鉄道、北越鉄道などの私営鉄道事業への出資や米作、発電、水道事業など。それぞれに時代の役割を果たした。
彌太郎の時代から交流があったウォルシュ兄弟が神戸で経営していた製紙工場を買い取り神戸製紙所(後に三菱製紙)を設立。また、横浜では明治屋、日本郵船と共に麒麟麦酒(キリンビール)を設立。起業家への支援も盛んに行った。
1916〜1948年
51歳1916年(大正5年)
小彌太を副社長に迎えた頃から久彌は多くの時間を小岩井農場で費やすようになった。牧畜のみならず、競走馬の育成やホルスタイン牛の酪農製品の製造販売にも注力。農作は燕麦、とうもろこし、じゃがいも、大豆など。地道な植林事業により、かつては見渡す限りの荒野だった大地を緑の森に変えた。
59歳1924年(大正13年)
社長時代に事業の社会性や公正な競争に心をくだいた久彌は、引退後も農牧事業のかたわら、社会への貢献に気を配った。その最たるものが東洋文庫の設立であり、清澄庭園、六義園の東京市への寄付といえる。
62歳1927年(昭和2年)
73歳1938年(昭和13年)
79歳1944年(昭和19年)
80歳1945年(昭和20年)
81歳1946年(昭和21年)
1948〜1955年
83歳1948年(昭和24年)
戦後、財閥家族に過酷な財産税が課された。久彌は茅町本邸を離れ、末広農場に移り住んだ。エリザベス・サンダース・ホームを開設し、混血孤児たちの救済にあたる長女・澤田美喜の相談にのった。昭和30年の冬、静かに90年の生涯を終えた。
87歳1952年(昭和27年)
90歳1955年(昭和30年)
(年齢は西暦の誕生日における満年齢)