三菱人物伝
志高く、思いは遠く ―岩崎小彌太物語vol.07 社員クラブの始まりー三菱倶楽部
小彌太は少年時代からいろいろなスポーツに興味を持ち、また巨漢にして機敏なスポーツマンだった。
1911(明治44)年、小彌太33歳の年のある日、後の日本剣道会の長老、中山博道師範のところへ出向いて剣道の指南を願い出た。しかし、中山はこの三菱副社長の申し出を断った。
「私たち剣道家は師匠に入門する際には血判を押して非常な覚悟で始めるものだ。ちょっと剣道をやってみたいという程度の気持ちのお遊び事ならおやめなさい」
ところがその翌日、小彌太はまた中山を訪ねた。「ぜひ教えて戴きたい、断然身をいれてやります」と言う。それならばというわけで、中山師範は入門を許して厳しく鍛えた。小彌太も稽古に励んだ。中山は後に「岩崎さんの剣は湿り気のない筋のいい剣だった。もし剣道家になられたら一家をなしただろう」と評した。
翌12(明治45)年には駿河台の岩崎邸に道場を作り、駿河台道場と名付けて会社の有志で稽古を始めた。
これより先の1903(明治36)年に三菱運動倶楽部が設立されて、工場や事業所で従業員がスポーツを始めていた。小彌太は、1914(大正3)年9月にこれらを統合して全社的な三菱倶楽部に改組した。社員の親睦、体育の向上がその目的だったが、単なる会社の福利厚生施設ではなく、社員の精神的修養、人格の錬磨を掲げていたところに特徴があった。副社長・小彌太はとくにこの点を強調した。倶楽部の運営にも熱心で、全国各地の事業所の関係者に趣旨を説明し、陣頭に立って指導した。
「寂然不動」の精神
この倶楽部は現在の三菱養和会の前身で、当時は剣道、柔道、弓道、テニス、陸上競技、ボート、水泳などのほか文芸関係の各部があった。東京の巣鴨駅北側の染井や埼玉県の大宮には運動場ができた。各地の支部に加えて上海、大連、ニューヨーク、ロンドンなど海外支部もあった。
1918年には丸の内にも武道場ができた。道場には小彌太の手になる「寂然不動」の大額が掲げられたが、これは剣の極意を示している。もともと中国の古典、易経にある言葉で、無心無為、じっと動かなければ、天の動きを感ずることができる、という意味である。直島製錬所などにもこの額が掲げられている。
小彌太は短艇(ボート)にも熱心だった。三菱のボート部は今は戸田だが、当時は隅田川に艇庫があり、毎年、社内漕艇大会が開催された。1917年の大会には、小彌太自ら選手として年長者番外レースに出場した。
倶楽部は1915年から部報を出し、18年からは『菱華』の名で季刊になった。研究論文、出張報告、各運動部や支部の活動報告に加えて、投稿散文の選者に大町桂月を迎え、詩は与謝野鉄幹、短歌は佐佐木信綱、俳句は岩野鳴雪で、カラーページあり、写真ありで、当時としては一流雑誌並みの充実した機関誌だった。
第一次世界大戦後の大正デモクラシーの風潮は社員クラブの活動にも活気を与えたが、間もなく大戦後の反動不況が襲来した。「諸事緊縮」のため、倶楽部機関誌も1921(大正10)年3月に休刊に追い込まれたが、部報としてはガリ版刷りでの発行を続けた。そして三菱の全社、深刻な不況との戦いが始まった。(つづく)
文・宮川 隆泰
- 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年11月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。