0歳1879年(明治12年)
8月3日 東京に生まれる
明治に生まれ、激動の昭和初期の約 20年間に三菱グループの企業理念を確立させた4代目社長、岩崎小彌太。第二次大戦後、GHQの財閥解体要求に断固反対を貫いた。社長とは何か、企業の目標は何かを考える時、 日本の近代経営史のなかで最も気になる男である。
岩崎小彌太は明治12(1879)年、彌太郎の弟・彌之助の長男として東京で生まれました。幼年時代を過ごしたのは当時三菱本社も置かれていた神田区駿河台。第一高等学校から東京帝国大学法科大学に進み、1年で退学すると英国ケンブリッジ大学へ留学。帰国後は26歳の若さで三菱合資会社副社長となりました。大正5(1916)年37歳の年には社長に就任すると、すでに多方面に拡がっていた事業の組織改革に着手。造船部は三菱造船株式会社へ、営業部は三菱商事株式会社へ…と事業部門ごとに株式会社として独立させ、本社は多角的事業体となりました。その三菱商事で大正9(1920)年に小彌太が示した方針は後に要約されて三綱領のかたちとなり、国家社会に対する奉仕を第一とする経営理念はグループ各社の社是や社訓の中に今日も生き続けています。
小彌太はまた、父・彌之助の事業を受け継ぐかたちで東京駅開業後の丸の内にオフィスビル街を建築。従来の赤煉瓦建築に比べて規模が大きく工期も早いアメリカ式工法を採用し大正12(1923)年には丸ノ内ビルヂング(旧丸ビル)を完成させています。昭和20(1945)年、第二次世界大戦敗戦の年に66歳を迎えた小彌太は10月GHQから要求された自発的解体に 「理由がない」として首を縦に振らないまま体調が急変し入院。手を携えて経営を行ってきた三菱各社の幹部に別れの言葉をメモで遺し同年12月、大動脈破裂によりに永眠しました。
1879〜1902年
0歳1879年(明治12年)
明治に生まれ、激動の昭和初期の約 20年間に三菱グループの企業理念を確立させた4代目社長、岩崎小彌太。第二次大戦後、GHQの財閥解体要求に断固反対を貫いた。社長とは何か、企業の目標は何かを考える時、 日本の近代経営史のなかで最も気になる男である。
6歳1885年(明治18年)
10歳1889年(明治22年)
12歳1891年(明治24年)
17歳1896年(明治29年)
利発だがおとなしい少年だった小彌太は、中学から寮に入り、粗衣粗食の生活で文武両道を鍛えられた。一高(現東大教養学部)に進学し、生涯の友となる大久保利賢(のち横浜正金銀行頭取)や中村春二(成蹊学園の創立者)らと交わり、勉強とボートに熱中。内気な少年から積極的で活動的な青年に成長した。
20歳1899年(明治32年)
21歳1900年(明治33年)
1902〜1906年
23歳1902年(明治35年)
現在の東京大学法学部を中退し、2年の準備期間を経てケンブリッジに本科学生として入学。知的好奇心旺盛な小彌太は新しい社会主義思想、勃興期の労働運動、新興の学問としての経済学などを貪欲に吸収した。帰国したら政治家になって日本の改革をしたいと真剣に考えていた。
26歳1905年(明治38年)
ケンブリッジの学生生活はすべてが紳士風でエレガントなものだった。社交マナーのため、小彌太の交際費は年間数千ボンドに跳ね上がったが英語力もメキメキ上達。1905年、小彌太は無事優秀な成績で卒業し、5年ぶりに帰国の途についた。
1906〜1916年
27歳1906年(明治39年)
28歳1907年(明治40年)
29歳1908年(明治41年)
英国から帰国後2年間に、たて続けに一生を決める重大事件が小彌太に降りかかった。まず、父からの三菱入社命令。政治家になり日本社会を改革したいと考えていた小彌太が承諾するまでには何日もかかった。また、父の希望による結婚。そしてその翌年、父岩崎彌之助がこの世を去った。
32歳1911年(明治44年)
33歳1912年(明治45年)
小彌太は明治の終わり頃から音楽家の留学援助とオーケストラの育成に力をいれた、企業メセナの先駆者だった。自らクラシック音楽を趣味としてチェロを習ったが、山田耕筰のドイツ留学や帰国後の音楽活動を支援し、日本最初の本格的な民間管弦楽団となる東京フィルハーモニー会を組織した。
36歳1915年(大正4年)
スポーツマンでもあった小彌太は33歳の時、後の日本剣道会の長老中山博道師範に入門。駿河台の岩崎邸に道場を作り、会社の有志で稽古した。また、社員の精神的修養、人格の錬磨を目的に、現在の三菱養和会の前身三菱倶楽部を設立。丸の内にも武道場を設置するなど熱心に取り組んだ。
1916〜1945年
37歳1916年(大正5年)
第一次世界大戦の軍需景気最中に小彌太は久彌から社長の座を譲り受けた。休戦後に復興需要から起きた投機ブームは短命で、東京・大阪の株式市場は大暴落となった。小彌太は三菱商事の幹部に一攫千金を夢み射利投機に走る風潮に倣ってはならないと説いた。
社長就任後の数年間で、小彌太は後の三菱グループの基礎をつくる大仕事をした。すなわち、会社の各事業部門を独立の株式会社に分離し、本社は持ち株会社として離れて統括すること、また順次株式を公開していくこと。『国家の為』を方針に、一家に独占していた資本の一部を社会公衆に分配した。
40歳1919年(大正8年)
43歳1922年(大正11年)
丸の内のシンボルだった旧・丸ビルは、小彌太の決断によって建てられたものだった。それまで『一丁ロンドン』を呼ばれた英国式赤煉瓦ビルが建ち並ぶ丸の内に、エレベーター付きの米国式鉄骨高層ビルを建て、中に商店街も作った。昭和モダンの幕開けを象徴し、丸の内ビジネス・センターの発展のきっかけになった。
丸ビル開館直後に関東大震災が発生。東京市全面積の45%が焼失した。三菱関係の建物は倒壊しなかったが、火に追われた下町の住民が殺到し、東京駅前、丸の内、皇居前広場は修羅場と化した。三菱本社では、けが人の手当てや飲み水・食糧を提供し、神戸・佐渡・名古屋などの三菱各社が救援に急行した。
45歳1924年(大正13年)
46歳1925年(大正14年)
49歳1928年(昭和3年)
関東大震災後の不良債務処理の遅れと、投機商法に対する銀行の不良貸し出しを背景に、一部商社が破綻し、全国の銀行が休業に追い込まれる事態が発生した。三菱銀行会長の串田は東京銀行集会所会長として事態収拾に努めた。この金融恐慌は、世界大恐慌へと続く。
50歳1929年(昭和4年)
51歳1930年(昭和5年)
52歳1931年(昭和6年)
世界大恐慌の不況のあおりから、三菱合資本社の事業会社の半数が赤字や無配となった。その頃、小彌太は母・早苗、姉・繁子、弟・俊彌の相次ぐ死と自身の体調不良でダウンし2年間の休養を余儀なくされた。社長不在中は古参幹部が会社を支え、後に本社の分系会社に対する統制は緩められていくことになる。
53歳1932年(昭和7年)
55歳1934年(昭和9年)
小彌太が病癒えて社務に復帰した頃、日本社会は大恐慌に激しくゆり動かされていた。こんな中、のちに近代日本企業の社是の代表作といわれる三綱領は、商事の社是として誕生した。今日風に言い直せば、社会貢献、フェアプレー、グローバリズム。三菱系の各事業会社で、今でも共通の精神的資産として受け継がれている。
造船所の多角化により、三菱電機や三菱航空機が新設された。しかし、航空機以外はいずれも不振。そこで小彌太は経営の合理化のため、造船と航空機を合併することを決定。社内外からの反対を押し切り三菱重工業を創設。小彌太の長期的な戦略判断の勝利だった。「重工業」という名称も小彌太の発案だった。
大正末期から昭和初期にかけて不況の嵐が吹きまくり、三菱各社とも業績低下に苦しんだが、その中で新規事業分野への進出が続けられた。乗用車「三菱A型」が製造されたり、潜望鏡開発のために日本光学工業(現・ニコン)が、石炭化学製品生産のために日本タール工業(現・三菱化学)がそれぞれ設立された。
56歳1935年(昭和10年)
57歳1936年(昭和11年)
小彌太は俳号を巨陶という俳人だった。休養中に、主治医が精神のバランスのためにすすめたと思われる。師はホトトギスの巨匠、高浜虚子。「氏の体躯の偉大であった如く、氏の気宇も亦雄大であった。句を成す上に於て規模が大きくこせこせしない所があった」と虚子は後に小彌太の句について回顧している。
58歳1937年(昭和12年)
軍部の本格的な政治介入が始まり、戦時経済一色になった日本は第二次大戦に向かっていった。小彌太は創業以来岩崎家の出資によって支えられてきた三菱合資会社を株式会社三菱社に改組。本社は事業会社を統括する持ち株会社になった。そしてその3年後に初めて株式を公開した。
61歳1940年(昭和15年)
62歳1941年(昭和16年)
小彌太は敗戦直後にGHQの財閥解散要求を拒否した。しかし彼は偏狭な反欧米主義者だったわけではない。開戦二日目に招集した三菱協議会で「英米の旧友を忘れるな」と語り、「平和が回復したら、また彼等と手を携えて、再び世界の平和と人類の福祉のために扶けあおう」と呼びかけた。
戦時中、小彌太は一貫して産業報国に徹し、政治不関与を貫いた。「日本がこんな大戦争をするようになったことはまことに不本意であるが、事今日に至った以上は事業人として国家目的への協力と国民生活の安寧とに力を盡くさねばならぬ」と語った。一方で米国提携企業の三菱内部における投資を適法に保護した。
63歳1942年(昭和17年)
64歳1943年(昭和18年)
65歳1944年(昭和19年)
日本航空機生産の中心であった三菱重工の名古屋の製作所が次々と米軍に爆撃され多数の死者が出た。都市爆撃のなか、小彌太は東海・関西方面の工場視察と激励に向かった。空襲下に現れた社長の激励に社員は感激した。その間、東京麻布の小彌太邸は全焼。戦況はもはや絶望的になり日本は無条件降伏となった。
66歳1945年(昭和20年)
小彌太は昭和天皇の終戦放送を病床で聞いた。GHQは日本の四大財閥の自発的解散を日本政府に指令。しかし小彌太は大蔵大臣の説得にも譲らなかった。ところが交渉中に体調を崩し入院。本社幹部がやむなく要請を受け入れた。社長名で本社解散が発表され、三菱本社の株主総会で小彌太の社長退任が決議された。
三菱本社の定時株主総会の前日に、小彌太は最後の社長告示として「産業人の職域を通じて行なわれる奉公の大義」について伝達した。それが公表されたのは小彌太の死後7年後のこととなった。12月、小彌太永眠。遺骨は、東京の世田谷区岡本にある静嘉堂文庫に隣接した岩崎家墓地・玉川廟に葬られた。
小彌太は亡くなる直前の社長辞任の告辞で「永遠の恒策と当面の実策」を一致させるよう努力してきたと言っている。ギャンブル的投機商法に走るのではなく、長期的経営戦略の上に短期的事業戦術を展開すること。それはまさに三綱領に掲げた理念であり、その経営思想は三菱グループ各社にとって貴重な精神的資産である。
(年齢は西暦の誕生日における満年齢)