三菱人物伝

青あるいは朱、白あるいは玄。荘田平五郎

若き日の荘田と慶應義塾の三田演説館
若き日の荘田と慶應義塾の三田演説館

荘田(しょうだ)平五郎が豊後(ぶんご)の臼杵(うすき)藩(現在の大分県臼杵市)に生まれたのは弘化4年(1847)である。6年後にペリー来航、さらに5年後の安政5年には日米修好通商条約が締結された。

洋学奨励の布告が出て、諸藩は漢学一辺倒を改め子弟を長崎や大阪の洋学塾で勉強させるようになった。藩校で抜群の秀才だった荘田も慶応3年(1867)、19歳のときに、選抜されて江戸の英学塾、青地信敬塾(あおちしんけいじゅく)に入門した。時は幕末も幕末。荘田は一時薩摩藩の開成所に転じ、明治維新なって明治3年(1870)、23歳で再び上京し念願の慶應義塾に入塾した。

福沢諭吉が蘭学塾を創始したのは安政5年、英学塾に転向したのが文久3年(1863)、慶應義塾と命名したのが慶応4年(1868)である。

福沢は荘田の卓抜した識見と才能を早々に見ぬき、4カ月後には荘田を義塾の教師待遇とした。荘田はやがて義塾分校設立のために大阪、京都に派遣され、そこで「学問と算盤(そろばん)の両刀使い」ぶりを十分に発揮し福沢の期待に応えた。それゆえに荘田に対し実業界入りを熱心に説く人もいた。

慶應の教壇から三菱へ

荘田は、明治7年、三田に戻り、再び慶應義塾で教鞭(きょうべん)を執ることになった。そのころは、たとえばCheckやInvoiceなどの単語に、誰でも分かる的確な訳語がまだなかった。義塾では紋付羽織に角帯をしめ諄々(じゅんじゅん)と説くように講義する荘田だったが、学生たちにいかにそれらの概念を理解させるか、しばしば教壇で考え込んでしまったという。大阪では実務にもセンスのあることを示した荘田だったが、要するに根が真面目だったのだ。

その荘田が明治8年2月、嘱望されて三菱に入ることになった。岩崎彌太郎の従弟で慶應の卒業生でもあった豊川良平がリクルートしたと言われているが、有能な人材を実業界に供給するのが慶應義塾の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底にある。荘田自身も、自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。

三菱での荘田の最初の大仕事は「三菱汽船会社規則」の策定だった。明治8年5月発表された。三菱が政府の海運助成を受けるためにやむを得ず整えた会社規則だが、その冒頭の「立社体裁」で「当商会は…まったく一家の事業にして…ゆえに会社に関する一切のこと…すべて社長の特裁を仰ぐべし」「ゆえに会社の利益は全く社長の一身に帰し会社の損失また社長の一人に帰すべし」と、社長のワンマン体制であることを宣言した。当時、渋沢栄一が株式会社の概念を導入し「資本を幅広く集め多くの人材が知恵を絞りあってこそ事業の発展がある」と主張していたことを意識、「すべては社長が決める。リスクは社長一人が負う」との彌太郎哲学を会社規則の第一条と第二条に盛り込んだ荘田苦心の作である。

商業資本の三井や住友は番頭が取り仕切っていたので、渋沢の提唱する株式会社の概念を受け入れやすかったかもしれないが、三菱は岩崎家の当主が自ら強烈な個性でリードする会社である。社員は主君を立て義を尊ぶ武士の規範を色濃く残す。その集団のルールを「三菱汽船会社規則」として、ぴしっと纏(まと)めた荘田、理想と現実の整合に工夫をこらす福沢門下生の面目躍如(めんもくやくじょ)だった。


荘田平五郎と明治31年竣工の常陸丸
荘田平五郎と明治31年竣工の常陸丸

明治8年(1875)に「三菱汽船会社規則」を策定した荘田(しょうだ)平五郎は、さらに2年後に経理規程ともいうべき「郵便汽船三菱会社簿記法」を纏(まと)めた。これにより三菱は、大福帳(だいふくちょう)経営を脱して、福沢諭吉が明治6年に「帳合之法(ちょうあいのほう)」で提唱した複式簿記を採用、順次近代的な経営システムを確立していく。

初期三菱の経営戦略を担った荘田は、東京海上保険会社、明治生命保険会社の設立に関わり、百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立するなど、さまざまな分野への進出を図った。明治18年の日本郵船設立に際しては三菱側代表として創立委員になり理事に就任した。19年に三菱が海運以外の事業を目的として「三菱社」の名で再発足するときに本社支配人として復帰、のち管事となり新生三菱を指揮した。

明治22年、荘田は英国の造船業界などの実情視察のために外遊した。当時の出張は船旅である。短くても半年。1年に及ぶことも多かった。ロンドンに着きだいぶ経ったある朝、荘田はホテルの部屋で開いた新聞のコラムに、「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見した。突然閃くものがあった。そうだ、日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。宮城(きゅうじょう)の前に開ける丸の内こそその場所だ。荘田は彌之助に「丸の内、買い取らるべし」との電報を打った。後日、彌之助が松方蔵相と合意した額は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍だった。

長崎造船所の近代化

荘田の功績に長崎造船所の改革がある。長崎造船所は明治20年に払い下げられた。28年に日本郵船が欧州航路の開設を決定したが、社外取締役の荘田の主張で新造船6隻のうち1隻は長崎造船所に発注された。常陸丸(ひたちまる)6172トン。それまでの最大建造実績は須磨丸の1592トンだから技術的にも大変なジャンプである。

30年に造船奨励法が公布され、修繕船から脱皮し新造船を事業の中核にするのだという明確な意識を持った久彌社長は、本社の管事として全事業を指揮する立場にあった荘田をあえて長崎造船所長に任命した。荘田は勇躍長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦などその後の大型船建造の道を開いて行った。

荘田の近代化はハード面だけではなかった。「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」など労務管理制度を確立、所内には工業予備校を設立し自前で職工の養成を図るようにした。また、造船における厳しい原価計算の概念を導入した。今では当たり前のことだが、当時の日本企業には製造原価など工業簿記の概念はなかった。

荘田は明治39年まで長崎造船所の所長を務め、また永らく管事として彌太郎、彌之助、久彌の三代を支え、明治43年に引退した。豪傑肌の人物が多い明治の三菱の経営者たちの中にあって、類を見ない英国風のジェントルマンで、生涯を通して「組織の三菱」といわれるような近代的なシステムづくりに貢献したと言える。

その後、荘田は明治生命保険会社の取締役会長になった時期もあったが、晩年は受刑者の社会復帰事業に協力したり聖書の勉強をしたりの静かな日々を送り、大正11年(1922)に74歳で他界した。妻は彌太郎の妹・佐幾(さき)の長女・藤岡田鶴(たづ)である。

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年11、12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。