三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.18 ベンチャーの旗手

ベンチャーの旗手
千川水道:明治期の給水先 / 大松騏一作『巣鴨百選』(1996年9月)

ベンチャービジネス支援が国の施策に謳(うた)われて久しい。社会が発展するとき必ず新しいビジネスが勃興する。幕末・維新期の起業家と言えば、誰が何と言っても岩崎彌太郎である。

彌太郎は土佐藩の役人として、長崎では樟脳(しょうのう)や鰹節など土佐の物産を売り軍艦や武器を買った。大阪に移ってからも貿易と海運で活躍し、藩の経済に大いに貢献した。

廃藩置県に先立ち明治新政府は藩営事業禁止の方針を打ち出した。薩長に高知・大阪間の海運を牛耳られたのでは堪(たま)らない。後藤象二郎、板垣退助ら土佐藩の知恵袋は考えた。「先手を打って自分たちの息のかかった私商社を立ち上げよう。そこへ藩の海運事業を譲渡し、足を確保するのだ」。

経営を任せうるのは岩崎彌太郎以外にない。強引に彌太郎を説得する。彌太郎、時代の変革を悟り仕官の道をあきらめる。実業家・岩崎彌太郎の誕生。海運会社九十九(つくも)商会が発足した。

彌太郎の強烈なリーダーシップで九十九商会は急成長する。海運事業だけでは終わらない。明治4年には、船舶代金見合いで紀州の炭坑を取得した。

6年には九十九商会は三菱と改称、かたわら、岡山県の吉岡銅山を入手した。今日の三菱マテリアルの原点である。吉岡は労務問題など困難を克服し、やがて良質な鉱脈を掘り当てる。

吉岡銅山

山地永代売り渡し証券

吉岡銅山は約1200年前に開鉱し、かつては日本の三大銅山の一つに数えられた。現在では閉山し、観光用に一部開放されている。

さらに、持てる経営資源をさまざまな事業に注ぎ込む。海運に付随して金融や倉庫業も生まれた。それらは流通の拡大とともに発展し今日の東京三菱銀行や三菱倉庫になった。

明治14年には、後藤象二郎から高島炭坑を買い取った。武家の商法で借金漬けになっていた象二郎を助けるべく福沢諭吉に説得されたものだ。高島は最新技術の導入により、後年三菱のドル箱になった。

基幹産業として早くから着目していた長崎造船所も手に入れた。共同運輸との戦いの真っ最中に政府からの借り受けに成功したのだ。彌太郎の没後に買い取り、画期的な設備投資によって造船三菱の本丸となった。

日本最初の水道事業も

成功があれば当然失敗もある。

たとえば、長崎時代から狙っていた樟脳事業。火薬の原料になる。明治5年に土佐藩から単独払下げを受け一儲けを企んだ。しかし、独占反対の声が湧きあがり、我に利あらずと見て3年で撤退した。同じころ、製糸事業にも着手、一時は200人の女工を雇う盛況を見せたが、市況意のままにならず採算悪化でギブアップ。

東京の水道事業も忘れられない。元禄時代に玉川上水を水源として小石川から浅草に至る一帯に給水する千川水道があったが、その後は廃れていた。彌太郎はその復興をめざし、明治13年に認可を得るや突貫工事を進め、翌14年営業開始にこぎつけた。日本最初の、ビジネスとしての水道事業だったが、後年、東京市の公営事業の中に吸収された。

彌太郎の起業家精神は澎湃(ほうはい)として沸き起こり涸(か)れることを知らなかった。このほか、貿易、海上保険、生命保険、鉄道投資、えとせとら、エトセトラ…。近代国家の経済活動のあらゆる分野に首を突っ込んだ。しかも、それは闇雲ではなく、緻密(ちみつ)に計算された、今日でいう「選択と集中のポートフォリオ戦略」だった。だからこそ、今日の三菱がある。

岩崎彌太郎は間違いなく近代日本を代表する起業家だった。

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年10月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。