岩崎彌太郎年表

岩崎彌太郎

岩崎彌太郎

下級武士の若者は、いかにして 「三菱の原点 」となったのか。
腕白だった幼少期。役人との衝突。やがて24歳で藩に取り立てられた彌太郎は…

天保5(1835)年、明治維新まであと33年を残した土佐国安芸郡井ノ口村。生活に困り地下浪人へと没落していた岩崎家の9代目として岩崎彌太郎は生まれました。幼少期は気性が激しく負けず嫌い。一方で儒学や漢学に励み、藩の役人と衝突しながらも24歳のときには初めて藩に取り立てられて半年におよぶ長崎出張を経験。32歳で土佐藩開成館長崎商会の主任になると欧米の商人を相手に輸出入の交渉を担当しました。明治3(1870)年土佐藩から藩船3隻を借り受け、大阪に三菱の創業となる九十九(つくも)商会を設立。以降、三川商会、三菱商会、郵便汽船三菱会社と社名を改めながら海運業における国内外の熾烈な競争を乗り越えていきます。明治10(1877)年に起きた士族の反乱・西南戦争では持てる力の全てを注いで政府軍の輸送に当たり、結果、三菱の海運業は当時の日本で王座の位置を占めるに至りました。

海運業以外にも炭坑・鉱山経営、造船業をはじめ銀行業、倉庫業、保険業など幅広く今日の三菱に通じる事業の多角化を展開した彌太郎ですが、その経営の最大の特徴は、明治初期の時点において個人や会社にとらわれず国家的目的を追求した点にありました。日本に居ながらにして世界を見つめ、今日の三菱の原点となった彌太郎は明治18(1885)年、胃がんにより50歳で永眠し、その葬儀には各界要人をはじめ3万人が参列。三菱の事業は弟・彌之助へと引き継がれてゆきます。

0歳1835年(天保5年)20歳1855年(安政2年)
20歳1855年(安政2年)32歳1867年(慶応3年)
32歳1867年(慶応3年)38歳1873年(明治6年)
38歳1873年(明治6年)50歳1885年(明治18年)

誕生〜青年期

1835〜1854年

歴史上の出来事
  • モールスが電信機を発明(1835年 / アメリカ)
  • アヘン戦争(1840~1842年 / 中国)
  • ジョン万次郎帰国(1851年)
  • ペリー、浦賀に来航(1853年)
  • 日米和親条約締結(1854年)

0歳1835年(天保5年)

岩崎彌太郎誕生

vol.01 土佐の岩崎家

vol.01 土佐の岩崎家

三菱を創始した岩崎彌太郎は、天保5(1835)年、土佐国安芸郡井ノ口村の貧しい家で生まれた。甲斐武田の末裔とされる岩崎家の家紋は「三階菱」だった。

19歳1854年(安政元年)

江戸遊学に出る

vol.02 焦るな、いごっそう

vol.02 焦るな、いごっそう

父・彌次郎、母・美和のもと、エネルギッシュな若者に育った彌太郎は、江戸遊学への思いを募らせる。その夢が、奥宮慥斎の従者ということで実現する。

江戸遊学〜井ノ口村時代

1855〜1866年

歴史上の出来事
  • 日米修好通商条約締結(1858年)
  • ダーウィン『種の起源』(1859年 / イギリス)
  • 桜田門外の変(1860年)、生麦事件(1862年)
  • アメリカ南北戦争(1861~1865年)
  • ノーベルがダイナマイトを発明(1866年 / スウェーデン)

20歳1855年(安政2年)

江戸で安積艮斎に学ぶ

vol.03 彌太郎、江戸へ

vol.03 彌太郎、江戸へ

彌太郎は江戸で、念願の安積艮斎の見山塾に入る。この頃から彌太郎の中で、治国経世の学を修めて自らの処世に結びつけようという意識が強くなっていた。

23歳1858年(安政5年)

吉田東洋の門に入る

vol.04 投獄、居村追放

vol.04 投獄、居村追放

我が家の一大事で江戸から帰国した彌太郎は、奉行所により投獄されてしまう。同房の商人から算術を学ぶと、出獄後は村を出て吉田東洋の少林塾に入門する。

24歳1859年(安政6年)〜
31歳1866年(慶応2年)

長崎派遣/郷士格の回復/土佐藩開成館貨殖局に出仕

vol.05 新時代への足踏み

vol.05 新時代への足踏み

藩命により長崎に派遣された彌太郎だが、金策のため無断帰国した咎で罷免となる。やがて郷士株を買い戻し、27歳で喜勢と結婚、長男・久彌が誕生する。

開成館〜九十九商会時代

1867〜1872年

歴史上の出来事
  • 徳川慶喜、十五代将軍に就任(1867年)
  • 大政奉還(1867年)
  • 近江屋事件 坂本龍馬暗殺される(1867年)
  • 王政復古の大号令(1868年)
  • 鳥羽・伏見の戦い 戊辰戦争始まる(1868~69年)
  • トルストイ「戦争と平和」(1869年 / ロシア)
  • 平民に苗字を許す(1870年)
  • 普仏戦争(1870~1871年)
  • 廃藩置県(1871年)
  • ドイツ帝国成立(1871年)
  • 新橋―横浜間の鉄道開通(1872年)
  • 太陽暦を採用(1872年)
  • 福沢諭吉「学問のすゝめ」(1872年)

32歳1867年(慶応3年)

開成館長崎出張所に赴任

vol.06 経済官僚、奮戦す

vol.06 経済官僚、奮戦す

再び長崎へ赴任する彌太郎。後藤象二郎に開成館長崎商会の主任を命ぜられる。グラバー、ウォルシュ兄弟などの世界の商人を相手に経済官僚として奮戦した。

vol.07 坂本竜馬と彌太郎

vol.07 坂本竜馬と彌太郎

彌太郎と親交のあった後藤象二郎は、同じく土佐に生まれた坂本竜馬と共に上洛する。長崎商会の後事を託された彌太郎は海援隊の活動を支えた。

34歳1869年(明治2年)〜
35歳1870年(明治3年)

開成館大阪出張所へ異動、九十九商会開設

vol.08 九十九商会の発足

vol.08 九十九商会の発足

開成館大阪出張所に異動。責任者に抜擢された彌太郎は土佐藩の権少参事に昇格し、土佐藩士たちが設立した海運を主事業とする九十九商会の活動を監督した。

36歳1871年(明治4年)〜
37歳1872年(明治5年)

廃藩置県により藩吏の職を辞す/三川商会に改称

vol.09 藩邸と土佐稲荷

vol.09 藩邸と土佐稲荷

彌太郎は大阪の土佐藩邸の責任者になり、藩の政務や大阪商会の活動を取り仕切った。一方、土佐藩邸の屋敷神として崇められたのが、土佐稲荷だった。

三菱時代

1873〜1890年

歴史上の出来事
  • 徴兵令、地租改正(1873年)
  • 板垣退助が民撰議院設立建白書を政府に提出(1874年)
  • 台湾出兵(1874年)
  • 日本、ロシア帝国間で樺太・千島交換条約締結(1875年)
  • ベルが電話機を発明(1876年 / アメリカ)
  • 西南戦争(1877年)
  • エジソンが蓄音機を発明(1877年 / アメリカ)
  • エジソンが白熱電灯を発明(1879年 / アメリカ)
  • 国会開設の勅諭(1881年)
  • 板垣退助らが自由党を結成(1881年)
  • 大隈重信らが立憲改進党を結成(1882年)
  • 内閣制度発足、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任(1885年)
  • 大日本帝国憲法(明治憲法)公布(1889年)
  • 第1回帝国議会(1890年)

38歳1873年(明治6年)

三菱商会に改称、吉岡銅山を経営

vol.10 『三菱』を名乗る

vol.10 『三菱』を名乗る

廃藩置県後、彌太郎は九十九商会の経営を引き受けた。九十九商会は「三川商会」に社名変更し、その後船旗の三つの菱形にちなんで「三菱商会」となる。

vol.11 三菱マークの起源

vol.11 三菱マークの起源

初期九十九商会の商標は、中央の円から三方に菱形が長く伸びたデザインだった。三菱商会に改称後の彌太郎の手紙には、「三菱はなり」と書かれている。

39歳1874年(明治7年)

東京移転、台湾出兵の軍事輸送を受命、三菱蒸汽船会社に改称

vol.12 台湾出兵と三菱

vol.12 台湾出兵と三菱

東京に移転し、三菱蒸汽船会社と改称。国から台湾出兵の軍事輸送を受託する。その後13隻の大型船を運航することになった三菱は大きく力をつけていく。

40歳1875年(明治8年)

上海定期航路開設、郵便汽船三菱会社に改称、三菱製鉄所を創設

vol.13 上海航路の攻防

vol.13 上海航路の攻防

明治8年、彌太郎の夢への第一歩、横浜・上海間航路が開かれると、外国企業との攻防が始まる。「第一命令書」の発令により三菱は政府御用達となる。

vol.14 福沢諭吉と彌太郎

vol.14 福沢諭吉と彌太郎

土佐出身者の多かった三菱だが、荘田平五郎ら福沢諭吉の門下生も入社した。彼ら学識者は三菱の会社規則を作るなど、近代化に大きな役割を果たしていく。

41歳1876年(明治9年)

三菱商船学校設立

vol.15 商船学校、商業学校

vol.15 商船学校、商業学校

台湾出兵後、海運会社の育成が急務とされ、船員養成を目的に三菱商船学校が設立される。明治11年には実業家育成の為の三菱商業学校も開校した。

vol.20 日本初のボーナス

vol.20 日本初のボーナス

外国企業との価格競争に勝利した彌太郎は、この勝利は社員の奮闘の賜であるとして、明治9年末、社員に資格ごとに一律で賞与を支給することにした。

42歳1877年(明治10年)

西南戦役軍事輸送受命

vol.16 西南戦争

vol.16 西南戦争

明治10年、西南戦争が起こると三菱は社船の徴用を命じられた。この時の軍事輸送は、国家の信頼を得るとともに、三菱の一大発展の財政的基盤を築いた。

43歳1878年(明治11年)

三菱商業学校設立

vol.17 東京に屋敷を買う

vol.17 東京に屋敷を買う

彌太郎は西南戦争で得た利益を元に産業資本を形成する傍ら、東京に屋敷を三つ購入した。現在の旧岩崎邸庭園、清澄庭園一帯、そして六義園の一帯である。

44歳1879年(明治12年)〜
45歳1880年(明治13年)

東京海上保険会社の設立を援助/三菱為替店設立/千川水道会社設立

vol.18 ベンチャーの旗手

vol.18 ベンチャーの旗手

九十九商会の経営で実業家となった彌太郎。その後は吉岡銅山の入手をはじめ、金融や倉庫業、水道事業、海上保険、生命保険など、あらゆる分野に参入した。

vol.19 偉大なる母

vol.19 偉大なる母

万事にがむしゃらな彌太郎だが、母・美和は生涯を通して心の安定をもたらす存在だった。彌太郎を産み育て、支え、そして看取った偉大なる母であった。

46歳1881年(明治14年)〜
47歳1882年(明治15年)

高島炭坑を買収/明治生命保険会社の設立を援助

vol.21 三菱の独占ゆるすまじ

vol.21 三菱の独占ゆるすまじ

大隈重信を警戒した伊藤博文は、大隈が助成を推進する三菱も警戒。政府は三菱に対抗しうる海運会社として、アンチ三菱連合の共同運輸を設立させる。

vol.22 渋沢栄一と彌太郎

vol.22 渋沢栄一と彌太郎

明治の日本経済を代表する実業家、岩崎彌太郎と渋沢栄一。全く異なる経営信念を持っていた二人が、共同運輸会社と郵便汽船三菱会社の戦いで対峙する。

48歳1883年(明治16年)〜
49歳1884年(明治17年)

共同運輸会社開業、三菱会社と競争/工部省長崎造船所を借用

vol.23 共同運輸との消耗戦と日本郵船の誕生

vol.23 共同運輸との消耗戦と日本郵船の誕生

共同運輸が営業を開始すると、たちまち三菱との熾烈な競争に突入する。共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定。明治18年に日本郵船が発足する。

50歳1885年(明治18年)

2月7日、病のため永眠

vol.24 彌太郎の遺産(最終回)

vol.24 彌太郎の遺産(最終回)

50歳で生涯を閉じた彌太郎。遺志に従って三菱は彌之助が引き継ぎ、さらに久彌、小彌太が継承し、そして、世紀を二度跨いで今日の三菱グループとなった。

(年齢は西暦の誕生日における満年齢)