三菱人物伝

黒潮の海、積乱雲わく ―岩崎彌太郎物語vol.22 渋沢栄一と彌太郎

渋沢栄一と彌太郎
「渋沢栄一と第一国立銀行」
渋沢史料館常設展示図録より。

権限とリスクは一人に集中すべきと確信する岩崎彌太郎。多くの人の資本と知恵を結集するのが近代経営と説く渋沢栄一。明治の日本経済を代表する二人の実業家は、事業経営に全く異なる信念を持っていた。

渋沢栄一(1840-1931)

第一国立銀行、王子製紙、日本郵船、東京証券取引所など、多種多様の企業の設立・経営に関わった。

渋沢は彌太郎の誕生から6年後に、現在の埼玉県深谷の富農の家に生まれた。若いころは尊王攘夷に走り横浜の外国人襲撃に参加しようとしたこともあったが、縁あって一橋家に仕える。慶応3(1867)年には徳川慶喜の弟昭武の訪欧に随行、各地で近代国家の様々なシステムを学んで帰国した。

維新後は大蔵省に入り、わが国の財政金融制度の確立に携わった。明治6(1873)年、財政改革の主張が容れられず井上馨らとともに官を辞する。以後、渋沢は民にあって合本主義すなわち多数の株主による会社の設立を推進した。第一国立銀行(後の第一銀行、現みずほ銀行)を創立したほか、数百にのぼる会社の設立に参画した。儒教の精神を西洋流の企業経営に採り込み、義に叶った利を求め、「道徳と経済の合一」をモットーとした。

一方、エネルギーの塊のような男、彌太郎は社長独裁こそが企業の活力の源泉と信じて疑わなかった。明治8年制定の三菱汽船会社規則に謳(うた)う。「当商会は…会社の名を命し会社の体をなすといえどもその実全く一家の事業にして…会社に関する一切のこと…全て社長の特裁を仰ぐべし」

向島の料亭で渋沢と彌太郎が酒宴を張ったことがある。天下国家を論じているうちは和気藹々(あいあい)だったが、会社の経営体制に議論が及ぶと、雰囲気は一気にしらけた。渋沢は日記に事の次第を得々と記したが、彌太郎側にはまったく記録なし。渋沢の話は痛いところを突いたということか。あるいは一顧(いっこ)だに値しなかったということか。

意見の背馳(はいち)多かりき

それぞれの信念に基づき事業を展開してきた二人が、ついに正面から角を突き合わせる。共同運輸会社と郵便汽船三菱会社の戦いがそれだ。

渋沢には岩崎三菱の専横が許し難かった。近代経営の体をなさない単一資本にして社長独裁の会社が、政府の助成を享受し日本の海運を意のままにしている。許せない。日本のために良くない。渋沢は井上馨らに働きかけ、三井を中心に共同運輸を設立した。2年半にわたる壮絶なビジネス戦争が勃発した。結局、共倒れ必至となり、両社合併して日本郵船になったのだった。

彌太郎が志半ばにして歿(ぼっ)し、三菱は弟彌之助が引き継いだが、海運以外の事業は、なおも頑なに「岩崎家の三菱」の事業であり続けた。

渋沢と彌太郎。明治日本の傑出した経営者だった。ともに国際感覚に秀で、「国家社会があっての企業」という共通の哲学を持っていた。お互いに一目置き、財界人としての活動では協力し合うことの多い二人だった。

しかし、渋沢は記している。「余は岩崎彌太郎氏とは昵懇(じっこん)なりしも、それは私交上のみ、主義の上には意見の背馳するところ多かりき。…共同運輸会社を起こしたるも実に三菱に対抗するためなりき」。渋沢は長生きして昭和初期まで日本の発展を見届けた。

後日談になるが、第二次大戦後GHQによって財閥本社が解体されたとき、最も株式公開が進んでいたのは三井でも住友でも安田でもなく、なんと三菱だった(注1)。渋沢が生きていたら何と言っただろうか。

  • (注1)

    三菱本社の一般株主は42.8%、三井は35.5%、住友、安田は0%

文・三菱史料館 成田 誠一

  • 三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。