#1 農場は我が家の延長、農牧を愛し社会に尽くした岩崎久彌の想い
岩崎久彌が晩年を過ごした千葉県富里市の旧岩崎久彌末廣農場別邸公園の中にある「久彌さんの畑」
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2027年3月19日~9月26日に横浜で開催される「2027年国際園芸博覧会」(以下、GREEN×EXPO 2027)。三菱グループでは大阪・関西万博に続いて、GREEN×EXPO 2027にも出展する。1970年に大阪で開催された日本万国博覧会以来、三菱グループは国内で開催されたすべての万博に出展している。万博への出展を通じて発信してきたのは、1870年の創業より受け継がれる、「社会の発展に貢献し続けたい」という思いだ。この思いは三菱グループが共有する理念である三綱領のひとつ「所期奉公(事業を通じ、物心共に豊かな社会の実現に努力すると同時に、かけがえのない地球環境の維持にも貢献する)」であり、三菱創業者岩崎彌太郎の長男で、三菱第三代社長である岩崎久彌という人物の思想と行動にも息づいていた。この連載企画では、約1年にわたり久彌の功績やゆかりの地を辿りながら、活き活きとした久彌像に迫っていく。第1回はプロローグとして、人と自然を愛した久彌の経歴や功績を辿ることにしよう。
東京メトロ千代田線湯島駅を降りてしばらく歩いていくと、長い煉瓦塀で囲まれた広大な地所へたどり着く。そこからなだらかな坂を上っていくと目の前に大きな洋館が現れる。現在は東京都が管理する重要文化財となっており、敷地全体は旧岩崎邸庭園と呼ばれる。一般にも公開されており、平日であっても来場者は絶えない。当時の敷地面積は約1万5,000坪。およそ東京ドーム1個分強の広さに、迎賓館として使われた洋館や、久彌一家の住まいだった和館を中心に約20棟もの建物が並んでいたという。
自然に囲まれながら、ここで暮らした久彌は、どんな人生を送り、どのような考えを持った人物だったのだろうか。
米国留学で自らのあるべき姿を学んだ青年期
岩崎久彌は1865年、現在の高知県安芸市で生まれた。幼少期は幕末の激動期にあたり、父である彌太郎は土佐藩開成館長崎商会に赴任し、土佐藩の物産の輸出や船舶の購入などに携わっていた。その後、彌太郎は土佐藩開成館大阪商会の監督の任につき、のち1870年に設立された海運会社の九十九商会で経営を担っていく。この年が三菱の創業年にあたる。
やがて彌太郎の仕事が多忙を極めるようになる中、久彌は東京に移り、慶應義塾(現在の幼稚舎)に入学。12歳のとき、彌太郎が慶應義塾をモデルに三菱商業学校を開設したのを機に、同校へ入学する。1881年には三田の借家から駿河台東紅梅町の学寮に移り、英語や簿記、歴史などを学んだ。
久彌は父彌太郎没後の20歳のときに米国に渡り、準備期間を経て、ペンシルべニア大学ウォートン・スクールに入学。政治学や経済学、会計学などを勉強しながら、現地の産業の勃興を目の当たりにする。また、フィラデルフィアの上流階級の子弟や大学教授、プロテスタントの牧師などとの交流を通して、将来の自分のあるべき姿を学んでいった。
22年間にわたり経営者として事業の多角化と組織の近代化を実行
25歳で大学を卒業し帰国した久彌は、26歳で三菱社の副社長に就任する。この頃、三菱は海から陸へと事業を転換していた。28歳で三菱合資会社の社長になると、丸の内の第一号館(現在の三菱一号館美術館がある場所)に本社を構え、本格的に事業に取り組んでいく。
久彌が社長だった時代は、三菱が鉱山・炭坑事業を本格化させると同時に、商事部門もその基礎が築かれた。造船も久彌が力を注いだ事業であり、長崎造船所の近代化を進め、神戸造船所や彦島造船所も開設した。また金融・倉庫・損保事業の発展、製紙事業の育成などにも努め、丸の内オフィス街を建設し、不動産業にも乗り出した。
久彌は旧弊にとらわれない自由な発想で、自ら考え、自ら判断し、自ら実行していった。それはさりげなく、それでいて確固たる経営理念に基づいていた。
こうして三菱第三代社長として、久彌は1894年から日清・日露戦争をはさみ、第一次世界大戦中の1916年までの、22年間にわたって経営者として活躍した。
50歳からは農牧事業に情熱を注ぐ
久彌は50歳のとき、誰にも一言も相談せず、三菱合資会社の社長の座を従弟で副社長の小彌太に譲る。当時は事業も好調で、久彌も年齢的に経営者として脂が乗ったころ。まさに無私恬淡、心やすらかで欲がない、名誉や利益に執着しないあっさりとした性格を窺わせる。
ここから久彌は岩崎家の事業として、農牧に情熱を注いでいく。留学から帰国時に持ち帰ったり、新たに米国から取り寄せたりした書物は、ほとんどが農業や牧畜に関するもので、若いころから農牧に心惹かれていたことがわかる。
叔父で三菱第二代社長の岩崎彌之助らによる開設から8年の苦闘が続いた岩手の小岩井農場を引き取り、厳しい自然条件の中、馬の生産を中心に、育牛、林業、農耕と手を広げていった。毎夏、家族とともに小岩井農場に滞在し、農場を自分の家の延長として愛し、ここに来ることを何よりの楽しみにした。朝早くからニッカボッカーにヘルメットという姿で馬の調教に立ち会ったり、最新の米国製トラクターに同乗したりしたという。
また、千葉の末廣農場では、畜産事業に力を尽くした。久彌自ら現場の作業を指揮・監督し、養鶏は最高時で8,000羽、年間45万個の産卵を得たほか、養豚は年間1,000頭を生産した。農場の一角に別邸を設け、月2~3回は東京から赴き、欧米の専門書や学術雑誌を読み、自ら養鶏や養豚、農作物の研究を行った。1945年の敗戦後、農地解放や財産税のため、久彌は農場の土地の大半を、従業員や地元の富里村に譲渡。現在、その場所には富里市役所や中学校があり、地域で活かされている。
所期奉公-社会のためにという信念
ロンドン・タイムズ北京特派員として日露戦争を欧州に報道し続けて有名になったオーストラリア人のG.E.モリソン博士が、20年にわたって収集した文献2万4,000冊・地図版画1,000枚の買い取りを国内の有識者から依頼され、貴重な文書の流出を防ぐために、久彌は一括購入した。このモリソン文庫は欧米で出版された中国関連の書籍が中心だったが、久彌は中国で出版された文献も収集し、テーマもアジア全体に拡大して東洋文庫を設立。今では所蔵数約100万冊を擁する世界の五指に入る東洋学研究図書館として、内外の研究者に利用されている。その所蔵の中には、久彌が長年収集してきた和漢書を主とする3万8,000冊の稀覯書も含まれる。
さらに、父・彌太郎が購入し、三菱社員の親睦やまた迎賓のために使用されていた清澄庭園、同じく彌太郎が購入・整備して久彌も新婚時代を過ごした六義園を、それぞれ東京市に寄付。「社会のために」という彌太郎以来の三菱の信念を体現した。
「三綱領」を体現した岩崎久彌の足跡をたどる
戦後、末廣農場に隠棲し、鍬や農具を揃えると、大半を譲渡して残った約6haの農場で畑をつくり、庭を愛でながら、静かな余生を送った。晩年は闘病の日々だったが、亡くなる1年前には「もう2年ほど生かしておいてくれぬか。今計画していることがあるから、それをやってみたい」と医師に語ったという。農牧事業へのさらなる夢が、なお胸中に去来していた。1955年、久彌は静かに生涯を終えた。享年90歳。
本連載ではこれから順次、久彌の足跡を追っていく。その足跡を辿っていくと、三菱グループに息づく理念「三綱領」を体現しているものであることがわかるはずだ。農牧を通して自然や人を愛した『カントリージェントルマン』岩崎久彌の活き活きとした姿を紹介するとともに、三菱グループの社会貢献への想いを伝えていく。来年3月から始まるGREEN×EXPO 2027へ向けて、この連載をぜひ楽しみにしてほしい。
参考文献:『岩崎久彌小伝』(公益財団法人三菱経済研究所、三菱史料館)