#2 久彌さんが農牧に尽力した原点はすべて安芸にあると思っています
|
三菱第三代社長岩崎久彌は慶応元(1865)年に土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)で生まれ、6歳まで過ごした。幼少のころ井ノ口で育ったことが、のちにカントリージェントルマンといわれる久彌が自然や農牧を愛するきっかけとなったのかもしれない。今回は岩崎彌太郎生家を代々守ってきた弘田富茂・瑩子夫妻に一族に語り継がれる久彌を巡る思い出話を伺った。
安芸市の観光スポットとなっている岩崎彌太郎生家
|
三菱創業者・岩崎彌太郎の長男である久彌は、現在の安芸市井ノ口で生まれ育った。家庭は、祖父母、父母、叔父、姉、妹、そして久彌。久彌自身は利発な子だったらしく、家の農作業も手伝ったという。
そんな彼がなぜ自然や農牧を愛する人物になったのか。のちに青年期の米国留学から持ち帰ったり、新たに米国から取り寄せたりした書物は、ほとんどが農業や牧畜に関するものであり、若いころから農牧に心惹かれていたことがわかる。また、社長退任後、畜産事業なども展開することになるが、そこでは自ら現場の作業を指揮・監督している。しかも晩年に至るまで、欧米の専門書や学術雑誌を読み、養鶏や養豚、農作物の研究を行っている。
岩崎彌太郎生家を長年守ってきた弘田家
安芸市の岩崎彌太郎生家は現在三菱グループ関係者だけでなく、多くの観光客も訪れている。この生家の管理人を代々務めてきたのが弘田家だ。現在の弘田富茂(とみしげ)・瑩子(えいこ)夫妻で4代目に当たる。
「もともと弘田家は地主である岩崎家の小作人だったと伝えられています。彌太郎さんの父である彌次郎さんのころから、かわいがってもらっていたそうです。私どもの先祖に当たる弘田宅平・作蔵親子が岩崎家によく出入りさせてもらっていたようです」
両家の関係を最も深めたのは、ある出来事だった。安政2(1855)年、彌次郎が酒席で庄屋との喧嘩に至り重体となった。このとき、近所や親戚の皆が庄屋側に付き、岩崎家は孤立状態に陥ったという。
「そのとき宅平・作蔵親子は、日頃、岩崎家から御恩を受けていたこともあり、御恩を返すのはこのときだと毎日のように岩崎家に赴いて力付け、仕事のお手伝いもしながら、さまざまな面で岩崎家のために力を尽くしたようです」
資料をもとに詳細に語る弘田富茂・瑩子夫妻
|
父が重体との知らせを受けた彌太郎は勉学に励んでいた江戸から土佐までを16日間で帰郷。詳しく事情を聞き納得がいかなかった彌太郎は庄屋を訴えたが、身分の違いにより聞き入れてもらえなかった。彌太郎は奉行所の壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と落書きし、異議申し立てしたという。最初の落書きはお咎めなかったものの、2度も落書きしたことによって、とうとう彌太郎は投獄されてしまう。岩崎家はますます困難な状況に追い込まれていった。
「このときも宅平親子は入牢中の彌太郎さんに賄いの人を付け、自分の店を畳み、家族一同で岩崎家の力になるよう尽くした、と『美福院手記纂要』に記されています。岩崎家が最も苦難な時期に先祖が恩義に報いたことから両家の関係が深まったようです」
以来、岩崎家と弘田家の関係は170年以上に及ぶ。岩崎家が家族一同で安芸を離れた1871(明治4)年からは、弘田家が彌太郎生家の管理を担うことになった。
家族の農業に対する情熱を肌で感じながら育った久彌
弘田夫妻が聞いた、久彌の安芸の思い出は小学校入学前の6歳のころまでとなる。のち30歳と74歳のときに2度、安芸市に帰郷しているが、そのとき幼少期の思い出を弘田家に語っている。その内容を伝え聞いた弘田夫妻が語る。
「幼少期の久彌さんはご生家から安芸の浜まで3kmの道のりを行きは荷車に乗り、帰りはイワシを積んだ荷車の後ろを歩いて帰ったと聞いています」
当時、岩崎家は開墾した木綿畑などへの施肥のため、多量のイワシを買いに浜まで行っていたようだ。
彌太郎は土佐藩の許可を得て、氾濫していた安芸川に文久3(1863)年3月に砂留普請(石積みの堤防)、同年6月に荒蕪地(荒地)の開墾を始め、元治元(1864)年春には新田・1町歩と綿作地・5反歩の開墾を完成させている。土地の人はこれを「岩崎開き」と呼ぶ。
「岩崎開き」と呼ばれる農地開発の堤防跡が今でも彌太郎の生家近くで見る事ができる
|
2014年に撮影された整備工事前の写真では、彌太郎が築いた石積みの堤防がはっきりわかる
|
明治元(1868)年3月に長崎から、あるいは、明治2(1869)年12月に大坂から高知へ送った手紙には岩崎開きについても記載されており(伊藤由美子「新収『岩崎彌太郎書簡』」『三菱史料館論集』第16号)、開墾から5年が経過しても、彌太郎が常に気を配っていることがわかる。
久彌も幼少期に父彌太郎たちから農業の重要性を感じ取り、家族が農業に従事する姿を見ながら育ったのだろう。弘田夫妻も語る。
「久彌さんも、岩崎開きの木綿畑でご祖母様・美和さんたちのお手伝いや、ご家族で汗を流しながら農作業に励んだ故郷の懐かしい記憶などから農業への想いを受け継がれたのではないかと思います」
「さらに、井ノ口では当時農耕に牛や馬を利用していた農家も多くあり、久彌さんは幼少の頃から牛や馬など家畜を身近に感じていたと思います。安芸での環境が牧畜にも想いを深くされたのでは、と想像しております」
健脚でもあった。明治4(1871)年12月に安芸から高知城下へ転居する際、6歳の彼は、40kmの距離を徒歩で移動している。弘田家の親戚に残っていた手紙には、宅平が久彌の手を引き、歩いて引っ越しの手伝いをしたことなどが書かれている。
小岩井農場も末廣農場もその原点はすべて安芸にある
のちに久彌は明治30(1897)年ごろ、安芸・井ノ口に多数の農地を購入し、戦後の農地改革まで所有していた。明治30年ごろに建てたといわれる西蔵には小作米1,000俵ほどが収納されていたという。実際、「弘田徳三郎・・・・明治41年度未収納米売上代金」(鷲崎俊太郎「明治後期における三菱合資会社の不動産事業」『三菱史料館論集』第17号 )として、岩崎家に関わる多数の小作人からの収納米勘定書の控えを弘田家でも保存している。弘田夫妻が語る。
「その頃は既に、東京で大成功を収めておられ、岩崎家は安芸で農地を多く購入する必要性は少なかったのではと考えますが、久彌さんが疲弊した農家を助けるために農地を買われたのでは、と想像しております。小作米を収納する目的で西蔵は建てられています」
郷土愛も強かった久彌は地元の井ノ口小学校に、明治28年4月に壱千円、明治42年3月に弐千円を寄付。現在も校門近くに記念碑2基が建立されている。また、久彌邸のお手伝いさんも高知から雇っている。
井ノ口村小学校
|
|
|
最後に安芸に帰郷したのは昭和15年5月、74歳のとき。このとき久彌は目立たず帰ることを望み、わざわざ室戸岬に寄港し、自動車で安芸へ帰っている。生家で久彌は弘田家にこんな話をしている。
「当時、井ノ口村が建てたであろう、岩崎彌太郎生家を表示した看板を引き抜くように指示をされています。また、主屋の藁葺き屋根なども、雨漏りがしない程度でよいとおっしゃったそうです。かけがえのない岩崎家のご生家を大切に遺したいとのお想いと併せて、目立たないようひっそりと管理するようにとのご下命だったと考えます」
久彌の長女として生まれた澤田美喜も父の思い出などをつづった手紙を弘田家に送っていたという。久彌の妻(美喜の母)・寧子が描いた日本画(雅号 小雲)、黒留袖や長襦袢、帯なども弘田家に形見分けされている。岩崎家とゆかりがあり、日本歴史学研究の泰斗であった重野安繹、同じく土佐藩の学者であった奥宮慥斎の子息で司法官の奥宮正治が書いた掛け軸2本も残されているという。
寧子夫人が描いたアヤメの日本画
|
久彌の長女、澤田美喜からの手紙 昭和51(1976)年
|
|
|
奥宮正治(「岩崎東山先生傅記」編纂主筆)の掛け軸
|
長年、岩崎彌太郎の生家を守ってきた弘田夫妻。今後5代目に役割を引き渡す準備もできている。久彌の思い出を引き継いできた2人は、最後にこう語る。
「小岩井農場も末廣農場もすべて、その原点は久彌さんが幼少期を過ごした安芸にあるのではないでしょうか。常に控えめで目立たないようにしてこられたお人柄も含め自然や農業・牧畜に対する愛情は、安芸で育まれたのだと思っています」。
久彌は安芸でたくさんの影響を受けたようだ。次回は久彌が関わった小岩井農場での足跡を追います。
75歳の時に安芸を訪れた後、龍河洞を見学 久彌(中央)
|
※本文中、年齢は記載がない場合は満年齢になります。
【関連記事】
みにきて!みつびし:安芸観光情報センター ~彌太郎こころざし社中~
みにきて!みつびし:岩崎彌太郎生家
みつびし最旬トピックス:三菱ゆかりの地便り 高知・安芸#7
