#3 「庭園のようなきれいな農場にしてほしい」小岩井農場への深い愛を持ち続けた岩崎久彌
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三菱第三代社長岩崎久彌が長年、オーナーとして携わってきた岩手県雫石の小岩井農場。日本最大規模の農場の1つとされ、宮沢賢治の詩にも登場する歴史ある農場だ。県の観光スポットの1つとなっており、重要文化財も数多い。そんな小岩井農場を育てた久彌は、ここでどのような逸話を残しているのか。久彌が愛した小岩井農場を運営する小岩井農牧社長の辰巳俊之さんと同農場の資料館館長兼学芸員である野澤裕美さんに久彌にまつわる話を聞いた。
小岩井農牧の辰巳俊之社長(左)、同農場の資料館館長兼学芸員である野澤裕美さん(右)
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小岩井農牧社長の辰巳俊之さんが、岩崎久彌の存在を強く感じたのは昭和56(1981)年に同社に入社して、しばらく経った20代後半の頃。久彌の孫にあたる岩崎寛彌さんが夏に小岩井農場に長期滞在したときのことだった。
寛彌さんからさまざまな話を聞くうち、特に印象深かったのが、 湯島の岩崎邸が空襲に見舞われたときのことだ。「そのとき少年だった寛彌さんは空襲を恐れ、『爺ちゃん、逃げよう。防空壕に入ろう』と叫んだら、久彌さんから『ばかやろう! 男ならここで逃げも隠れもしないものだ』と言われたそうです。その久彌さんの印象は非常に怖く、寛彌さんは『やはり爺さんは覚悟が決まっていたんだろう』と話されていました」
当時の寛彌さんは、辰巳さんにとっては頑固一徹な、年の離れた親父さんという存在。かえって、そう話してくれた寛彌さんをもっと身近に感じたという。
辰巳さんは30代になってから東京に転勤。小岩井に出張に来るときは大正3(1914)年に建てられた、農場内の来客用応接・宿泊施設である「倶楽部」を定宿としていた。寛彌さんもよく泊まっており、会う機会も多かった。ときには夜中の2時に起こされ、「ほら、酒飲むぞ」と勧められた。明け方までお付き合いしてから出社していたという。
寛彌さんはフランス語のNHKラジオ講座を午後2時から聞き、それが終わると就寝、真夜中に起床していた。辰巳さんが「寛彌さんの生活はおかしいですよ」と進言したら、「これがナチュラルウェーブ (無理のないやり方)というもんだ」と言っていたそうだ。
小岩井農場内の来客用応接・宿泊施設である「倶楽部」(国指定重要文化財)
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「従業員のために花を植えなさい」
久彌については、寛彌さんの話の端々にその存在を感じることができたという辰巳さん。久彌が農牧や自然を愛し、農場の従業員も大事にしてきたことは働くうちに自然と感じ取ってきたという。
「かつて久彌さんから『従業員のために花を植えなさい。特に桜を植えなさい』とご指示があったことが伝えられています。また、ご本人はイロハモミジが大変お好きで、農場の至るところに植えられました。春には桜が咲き、秋にイロハモミジが紅葉するので、従業員が四季を楽しめるようにされていたのだと思います」
久彌が小岩井農場のオーナーとなったのは明治32(1899)年。その後、明治39年(1906年)から岩崎家の直営体制が確立され、大規模な施設整備と近代化を進める重要な転換点となった。現在、国指定重要文化財となっている小岩井農場の施設21棟は、久彌の時代となって作られたものがほとんどだ。
小岩井農場まきば園より車で5分ほどの場所にある一本桜
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小岩井農場には岩手山を背にして別邸があった。こちらに書庫となる蔵があり、洋書の農業書がたくさん所蔵されていた。
「それを調査研究のため初めて拝見したとき、非常に感動しました。久彌さんはここまで小岩井農場のことを思い、少しでも良い農場にしようと自ら学ばれていたのでしょう」
久彌は小岩井に来ると、朝早くから活動した。朝食に牛乳は欠かせなかった。ちなみに東京で過ごすときは、駒込の屋敷まで小岩井の乳牛を運んで、牛乳を搾っていたそうだ。朝食のあとは、散歩をしたり、自ら乗馬したりして農場内をニッカボッカ姿で見て回った。その後は読書をすることが多かった。孫である寛彌さんにも、ハエがうるさいからと、よくハエ採りを指示していたという。
ときには従業員を注意することはあったが、それは直接的ではなかった。
「あるとき久彌さんは『馬車を並べて楽しそうに話をしながら作業していたよ』というようなことをおっしゃったそうです。それは並べて走っていると危ないからやめさせたほうがいいという意味でした。直接叱るということは決してなさらず、それとなく上役に話をされたそうです。従業員達を怒鳴りつけることは決してしない。その一方、久彌さんが現場に来ると、従業員は手をとめて挨拶しないといけないと思うので、仕事を止めないよう、あえて従業員と違うほうへ行き、こっそり隠れていたそうです(笑)」
小岩井農場資料館館長兼学芸員である野澤裕美さんはそう語る。
「30年後でも恥ずかしくない牛舎を作れ」
久彌の時代に建てられた牛舎が今も使用されている
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野澤家は、四代115年にわたって小岩井農場に関わっており、曾祖父・大伯父・父のいずれもが獣医として農場に勤務していた。野澤さん自身も農場内の社宅で生まれ育った、まさに小岩井農場の生き字引のような人だ。ほかにも久彌のエピソードとして残っている話が二つあるという。
「一つは、一号牛舎を作るとき、技術者がこういうふうに作りたいと言っても、それはお金がかかるからダメだと徐々に止められるのが普通です。しかし、久彌さんは使い勝手がいいなら作ったほういいと、『30年後でも恥ずかしくない牛舎を作れ』と言って許可したそうです。そのおかげで、一号牛舎は昭和9(1934)年に建設されました。当時最新鋭のスタンチョン式(搾乳の際、牛を容易に固定できる方式)を取り入れた搾乳牛舎で、もう90年以上経ちます。現在も68頭収容の搾乳用牛舎として使用されています」
国指定重要文化財にもなっている小岩井農場施設第一号牛舎
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小岩井農牧株式会社が設立されたのは昭和13(1938)年。それまで農場は久彌の個人的経営で、私財を投じていたという。
「そのとき久彌さんは、『農場は庭園のようなきれいな農場にしてほしい』と言われたそうです。もともと今の農場の風景というのは、事業を拡大させる中で成立してきた風景であり、事業をやめてしまえばなくなってしまいます。久彌さんの言葉は、事業を続けてほしいという意味だったと考えています。たとえば、牛が放牧された運動場のような風景、牧草を刈るための牧草地、それに森といった風景は、農場の事業をやめるとなくなってしまう。やはり、この事業を続けてほしいという想いがあったのでしょう」
小岩井農場へ深い愛を持ち続けた久彌。エピソードは後編へ続く。
