カントリージェントルマン 岩崎久彌に学ぶ

#4 小岩井農場という“聖なる地”を残してくれた久彌さんの想いを受け継いでいきたい

農場のことを想い、少しでも良い農場にしようと自らも学んだ三菱第三代社長岩崎久彌。自らの事業とする一方で、ニッカボッカ姿で散歩したり、乗馬したり農場でリラックスした時間を過ごした。小岩井農場を育てた久彌は、ここでどんな逸話を残しているのか。後編でも引き続き、久彌が愛した小岩井農場を運営する小岩井農牧社長の辰巳俊之さんと同農場の資料館館長兼学芸員である野澤裕美さんに久彌にまつわる話を聞いた。

昭和初期の三号パドック

久彌が愛した小岩井農場には久彌に関するエピソードがたくさんある。前編に続き、ほかにも紹介しよう。例えば、農場内にあった小学生の生徒が修学旅行で東京へ行き、湯島の岩崎邸へ挨拶に赴いたときのこと。久彌は着流し姿で出てきたが、小学生の子どもたちが皆正装しているのを見て、「この格好で、相すまん」と言って、袴をつけて出直してきたそうだ。
久彌にとって、従業員は身内にも近い存在だったのだろう。久彌に関する従業員らの思い出話として残っている逸話がある。小岩井農牧社長の辰巳さんがこう話す。
「久彌さんが奥さま(寧子夫人)と畑に一緒にいらっしゃったとき、奥さまが雑草か何かと思って、畑のものを引っこ抜いたそうです。そのとき『それは作物だから抜くな』と久彌さんは怒鳴ったそう。いつも穏やかな久彌さんが奥さまを叱るのを見るのは初めてだったそうです」
それだけ久彌は農場ではリラックスし、自然のままに家族とも接していたのだろう。
また、従業員が海外から輸入する牛のことを報告に行った際、「それは良い選択をした」と久彌は言ったそうだ。久彌が輸入する牛の種類や特徴のことをすでに知っており、それだけ詳しかったということが言える。それは日頃から、洋書の専門書を読んできたからだろう。ただし、知っているからといって、久彌が表立って指示することはなかった。

小岩井農牧社長の辰巳俊之さん

久彌は上層部には相応に接したが、一般の従業員からは、やさしいおじいちゃんのような存在として見られていた。辰巳さんによれば、孫である寛彌さんも久彌のDNAを受け継ぎ、農場の従業員にはやさしく、時に厳しい方だったそうだ。

久彌は夏に小岩井農場に訪れ、長いときで3か月滞在した

小岩井農場の中にある「小岩井農場重要文化財ギャラリー」では久彌のストーリーや三菱グループと農場の関係などを知る事ができる。

久彌は小岩井農場には夏に訪れることが多かった。別邸ができるまでは「倶楽部」に滞在し、1~2週間ほど滞在することが多かった。別邸ができてからは、長いときで3か月ほど滞在した。
小岩井農場は、久彌にとって自らの関心に基づいて携わることができる事業でもあった。
「小岩井農場の土壌改良には消石灰が有効であると幹部に勧めたそうです。宮沢賢治が勤めていたことで有名な東北砕石工場が岩手県一関市にあり、そちらで購入した消石灰を散布することになったそうです。この工場は小岩井農場へ販売することを想定して創業したともいわれています」
こう話す野澤裕美さんは、小岩井農場資料館館長兼学芸員であるだけでなく、前編でも述べたように曾祖父・大伯父・父、そして自分の四代にわたって、小岩井農場に深く関わってきた。野澤さんが仕事で久彌のことを感じるときはどんなときなのだろう。
「一般のお客さまを対象に小岩井農場のガイドをするときもあるのですが、わりと久彌さんのことを話しているように思います。久彌さんの『30年後でも恥ずかしくない牛舎をつくれ』といった創業者の志の話は一般の方も興味深く聞いてくれますね」

資料館館長兼学芸員である野澤裕美さん

小岩井の何を引き継いだとしても久彌さん自身を引き継いでいると言える

今見ても、小岩井農場の牛舎を始めとした施設はハイカラに思える。小岩井農場と同じような洋風デザインは、札幌農学校(現・北海道大学農学部)の第二農場を嚆矢としているが、小岩井農場のデザインは、現在の千葉県成田市に開設された宮内庁下総御料牧場から大きな影響を受けていると言われる。
当初、小岩井農場の事業を始める際、久彌は トーマス・グラバーや、アメリカの獣医師でお雇い外国人だったエドウィン・ダンらを現地に招き、相談している。そこで畜産ならいけるという確証を得て、畜産農場をつくるべく農場を創業者の1人で鉄道庁長官を務めた井上勝から引き取った経緯がある。北海道などのように土地が痩せて、気候が厳しい場所であっても牧草は育つ。だから畜産なら可能だということだ。ちなみにエドウィン・ダンの葬儀には、久彌の名で供花が贈られている。それだけに親交があったことが窺われる。

三号牛舎。午前中は外に放されている仔牛を見る事ができる。

小岩井農場は宮沢賢治の詩に出てくるように、地元でも昔から岩崎家の農場であることは知られていた。宮沢賢治の詩(草稿)には「これはこれ、岩崎という大ブルジョアの農場なれば」とある。賢治はよく農場を見に来ていたらしく、憧れもあったのだろう。当時は、給料をもらって働ける農業というスタイルは、かなり新しかったようだ。
久彌が小岩井農場を訪れたのは昭和18(1943)年が最後だった。戦後になると財閥解体や農地改革で、小岩井農場も存続危機に見舞われた。久彌も岩崎家と小岩井農場の関わりをなるべく無いように示すほかなかったのだろう。晩年に住んだ千葉県の末廣農場で久彌は、小岩井から送られてくるリンゴを楽しみにしていたという。
戦後は組合活動が活発化し、小岩井農牧の従業員の思考も左傾化が進んだが、岩崎家に対してだけは特別だった。「組合員は上司には反発しても、岩崎家に反発する人はほとんどいませんでした。久彌さんの人柄や功績もあったのだろうと思います」(野澤さん)
辰巳さんは30代前半で半年間ほど、久彌が農牧事業を行うために開設したブラジルの東山農場で働いたことがある。そこには日本館があり、久彌のために建てられたものだった。館内には久彌の肖像写真が掲げられており、毎日のように久彌を見ながら仕事をしていた経験がある。
「ブラジルで、現地の総支配人だった 山本喜誉司先生の子孫の方々にお会いする機会がありましたが、山本先生は久彌さんに強い忠誠と敬愛の念をお持ちだったことが伝わっています。久彌さんはその山本先生に、経営をすべて任されました。信頼できる者に自分の大切な農場を託す。それはまさに小岩井農場と似ているところがあると思います」

小岩井農場と久彌夫妻
小岩井農場を、そして自然や農牧を大事にした久彌。今、改めて久彌の想いを受け継いでいくために大事にしているものとは何か。野澤さんはこう語る。
「小岩井農場はすべて、久彌さんがつくってくれたものなので、何を引き継いだとしても久彌さんを引き継いでいると言えるかもしれません」
辰巳さんも次のようなメッセージを送る。
「宮沢賢治は小岩井農場という長編詩のなかで、“聖なる地”という言葉をドイツ語で残しています。聖なる地を久彌さんが残してくれた。私はそんな想いをずっと持ち続けています。聖なる地は、この小岩井農場全体を指します。次の世代にもこの聖なる地を受け継いでもらいたいと思っています」。

岩崎久彌が晩年を過ごし、「末廣農場」を経営した千葉県富里市では現在、近代農牧の発展に寄与した久彌の功績を顕彰するため、旧岩崎久彌末廣農場別邸公園内に銅像を建立するためのクラウドファンディングを実施中です。
詳しくはこちらのサイトをご覧ください
(寄付募集期間:2026年7月1日~2026年7月30日)

 

※「カントリージェントルマン 岩崎久彌に学ぶ」では、秋ごろに末廣農場が登場する予定です。